聖金曜日礼拝「あなたは今日」 ルカによる福音書23章32~43節

教会暦では、受難週の金曜日を「聖金曜日」あるいは「受苦日」と呼ぶ。主イエスが十字架に付けられて、亡くなられた悲しみの日という意味が込められている。外国語でも同じような命名がされているが、英語では「グッド・フライデー」と呼ばれる。「良い金曜日」という命名には違和感を持つ人もあろう。なぜ「グッド、良い」のか。「バッド、悪い」の間違いではないのか。「ホサナ・ホサナ」と喜び迎えた人々が、数日後には「十字架につけよ」と叫ぶ。そのような人間の罪があらわにされたのが十字架ではないのか。いや、主のみ苦しみによって、人間の罪が購われ、赦されたではないか、という主張もあろう。そもそも「良い」とはどういうことなのか、今日のルカのテキストから、学びたい。

共観福音書の中で、ルカの記述は独特である。十字架上の主イエスの言葉が、いくつも記される。特に共に十字架に付けられた二人の強盗(今の言い方なら政治犯)との対話が記されることが、他の福音書にみられない特色である。皆さんはこの二人の強盗との対話、彼らに語られた主イエスのみ言葉を、どう受け止めておられるだろうか。

二人の強盗(実は政治犯だろうと思われる)が、主イエスの右と左に同じように釘付けられている。但しこの二人、自分の人生の最期に臨んで、まったく対照的な態度を取っているのである。人間は、その死に臨んでも、いろいろな態度を取る事ができる。人生の節々に、同じような状況や人生経験の中で私たちの取るべき態度は、自由である。自分の人生に、とりわけ、不条理な経験の中で、どういう態度を取るのか、『夜と霧』の著者、V.E.フランクルが語る「態度価値」という問題である。態度如何によって、人生の質が変わるのである。にこやかな態度、卑屈な態度、ふてくされた態度、それぞれにその人生に影を投げかけるであろう。生きるのはその自身であり、他の人ではない。

二人の強盗、一人は主イエスをののしった。「神の子ならば、自分を救え」。この言葉は実に良く分かる。実感がこもっている。しかしもう一人はこれをたしなめて、「主よ、み国で、自分を思い出してください」と憐れみ乞う。確かにルカは、読者に「あなたの人生態度はどちらか」と問いかけているのは間違いではない。ののしった強盗の言葉を聞いて情けなく、ふがいなさも感じるだろう。しかしどうか、自分はどちらか、と問われたら、すぐにはっきりと、どちらと言えるだろうか。ののしっても、憐れみを乞うても、ある意味では同じことなのである。ネットの「誹謗中傷」が社会問題にもなっており、それを投げつけられた人が、追い詰められ苦しむということがある。言葉は「燃える矢」の如きである。しかしその言葉は、いつかその人自身に帰っていく。人生で取るそれぞれの人間の態度は、結局その人自身に帰ってゆくであろう。それを象徴するように、ルカは「イエスの右と左」にという言葉で表現するのである。

「この世にはふたつの人間の種族がいる、いや、ふたつの種族しかいない、まともな人間とまともではない人間のふたつ。このふたつの『種族』はどこにでもいる。どんな集団にも入りこみ、紛れこんでいる。まともな人間だけの集団も、まともではない人間だけの集団もない。したがって、どんな集団も『純潔』ではない。」これは『夜と霧』の中に語られるV. E.フランクルの洞察である。これは「被収容者は善、収容所監督者は悪」という「善と悪」「敵と味方」というような単純な人間に対する二分法ではない。大半の被収容者は、人間の生活を奪われ、人間らしさを忘れ、感情を消滅させてしまう。しかし、通りすがりに慰めの言葉をかける者、なけなしのパンをそっと置いて立ち去る者などもあった。また、収容所監視者の大半は残虐行為に染まったが、中には人憐みを忘れなかった監視者もいたのである。私費からかなりの大金を出し囚人の為に薬を買う所長や、自分の朝食から取り分けた小さなパン一片を、やさしい言葉とまなざしとともに、そっと差し出した監督者もあったのである。確かにいわゆる人間性を失う者、最後まで持ち続けるもの、ユダヤ人、ドイツ人双方とも、両者存在しているのだが、フランクルが言いたいのは、「どんな集団も『純潔』ではない」という深い洞察なのである。

主イエスは、強盗の言葉に答えて語られる。「あなたは、今日、わたしと共に、パラダイスにいる」。この救いの約束は、誰に向かって、告げられていると思うだろうか。主に敬意を表してひたすら憐れみを乞うた強盗に向かってなのか。そして主イエスを「救ってみよよ」とののしった強盗には、この救いから拒まれているのか。ここでわたしたちは、人間そのものについて、深く問われているのだと思う。人間の態度も、個性も、立場も、生まれも、人生経験も違うだろう。しかし人間として、神の前にはどうなのか。どちらの強盗も、十字架は同じ場所に、同じ地平に立っているのではないか。どちらの十字架も、上も下もないのである。そしてその真ん中に、同じ地面に、主の十字架は立っており。そこに同じく血を流し苦しまれているのである。主はこの二人の犯罪人と共に亡くなられた。この「二人」に、どちらもに、パラダイスの約束は語られているのではないか。

今日は「グッド・フライデー」である。この言葉の語源は諸説あるが、そのひとつが「ゴッド(神の)フライデー」であるという。「神のゆるしと憐みが表された金曜日」。それはまさに「良い」金曜日ではないか。