「墓から取り去られ」ヨハネによる福音書20章1~18節

祝イースター、主イエスのご復活を心から喜びたい。イースターにつきものなのは「卵」、殻を破って、ヒヨコが生まれ出るように、墓に葬られた主が、3日目に新しい命によみがえられた出来事の縁とされる。ベルギーでは、復活祭の前日に、教会の鐘が祝福を受けるためにローマへ飛び、子どもたちへのチョコレートエッグを持って戻ってくる。そして子どもたちは、それを探すのが、「エッグ・ハント」。チョコレートの国らしい逸話だが、自治体主催で公園を会場に、小さいこどもは無料で行参加できるという。この時ばかりは、チョコレート食べ放題となるらしい。

歌人の俵万智氏にこういう歌がある。「電気なく水なくガスなき今日を子はお菓子食べ放題と喜ぶ」。これは2011年当時、作者がまだ幼い子どもと東北に暮らしていた時の体験が背後に歌われている。大震災により生活のインフラがすべて失われた。いつものようにご飯を作って食べることもできない。そこでありあわせの保存食、お菓子を食べてその時を凌ぐ。いつもはお菓子ではなくちゃんとご飯を食べなさい、と叱られるが、この時ばかりはお菓子しかないので、「食べ放題」と子どもが喜んでいる。激甚災害の悲惨の中にも、子どもの笑顔がある。それで親もまた救われる、そういう心が歌われている。

東北の大きな震災が起こったのは3月の半ば、受難節のさ中にあり、やがて間もなく復活祭を迎えようという時期である。この時期に符合するように、こういう出会いも語られている。「ゆきずりの人に貰いしゆでたまご 子よ忘れるなそのゆでたまご」。イースターエッグというわけでもなかろうが、親子で震災避難する中で、どこの誰とも知れぬ行きずりの方から、ゆで卵をいただいた。まだあたたかいその「卵」は、単に食べ物を越えて、真に人の生命を支え養う愛の贈り物である、この情(こころ)を忘れてはならないと、幼子にも自らにも戒めている。ここにもまた人間の悲惨の中に、小さいかもしれないが、しっかと点される、いのちの火があるだろう。それを子どもに伝えることができたら、何と幸いだろうか。

このイースターにはヨハネ福音書からお話をする。ヨハネの復活物語である。他の福音書と読み比べて、印象的なのは、最初の復活の証人になった人たちの有り様、行動の様子が生き生きと描かれていることである。主イエスを葬った墓に赴いたマグダラのマリアが、墓をふさぐ大石が取りのけてあるのを見て驚き、走って帰った。墓の中をよく確かめることなしに走り出すとは、余程せっかちである。ドイツ人は考えてから歩き出す。イタリア人は考える前に走り出す。日本人はアメリカ人が闇雲に走っているのを見て、自分も走り出す。そして彼女からその情報を聞いたペトロとヨハネは、これも驚いて、なんと主の墓まで競争をしている。この競争はどうやらヨハネが勝ったらしい。これを記念して、古代教会が「復活記念マラソン大会」を企画・開催した、というのは寡聞にして聴かないが。この時代、大の大人が、公の場で走る、というのはおよそ異常な行動である。普通ならそういうことをしない。走ると衣の裾がまくれ上がり、腿まであらわになり、不様で恥だからである。しかし、こういう記述で、ヨハネは「復活の出来事」の驚きの大きさを、読者にダイナミックに印象づけようとしている。

さらに物語の後半では、マリアのみを登場させ、一転静かに、しとやかに復活の主との出会いが語られる。弟子たちにご注進に及んだマリアは、いつ墓に戻って来たのだろうか。この個所で、復活の主と再会する際に繰り返される「一つの用語」がある。これも身体表現、動作を表す言葉である。それは「振り向く」という言葉である。14節および16節。彼女は、「振り向いて」主を見たと記されるのである。なぜ「振り向いて」見るのだろう。「前向きな人生」が大切だと勧められ、しばしばそのように生きよ鼓舞されるが、先ほどの「ゆで卵」の歌の「忘れるな」の一句に込められているように、歌人は、人間の基本的な生きる姿勢は、「振り向く」だと言いたいのではないか。人生で経験した小さいが大切なものを、忘れず絶えず振り返って、生きてゆく。そこに人間の一番の本質があるのではないか、と語っているようである。

聖書の人々の人生観は、よくボートを漕いで進む人に譬えられる。後ろを見ながら前進する。旧約の預言者エレミヤはこう語っている。6章16節「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ。どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」ところがこのみ言葉を聞いた人々は答える「われわれはそこを歩むことをしない」。古からの道を振り返って、どれが幸に至る道かを問いかけよ。そしてその道を歩め。後ろ向きの道、つまり歴史を眺めることこそ、神のみわざとみ言葉を知る縁なのである。実に聖書の神は、歴史に働かれ、歴史を導かれる方なのである。今の時代、将来のヴィジョンばかり強調される現代に、またこの国にあって、しっかり後ろを振り向いて、神の言葉を聞き取らねばならない時なのだろう。

しかし今日の復活物語のマリアの二度繰り返される「振り向き」が表している事柄は何か。なぜ二度も彼女は振り返るのか。福音書に描かれマグダラのマリアは、現代的に言えば、「前向きに」張り切って生きて来た人だったと言えるだろう、いわば悪霊に憑かれた如く人生を走り続ける人。ヨハネ福音書では、他の女たちを差し置いて、一人で墓に行くほど行動的、積極的な人である。何度も墓を覗いたり、弟子たちに知らせに大急ぎで走って帰ってくる。そのように前向きに必死に行動する。ところがマリアは、自分のすぐ後ろに、復活のイエスがおられるのに気付かなかった。主は私のすぐそばにおられるのに、全く気づいていない。

二度の振り向き、どこに違いがあるのか。一度目はマリアは自分から後ろを振り向いて主イエスを探している。そして、二度目は、主イエスの方が声を掛けて、マリアを振り向かせている。つまりマリアは、これまで主イエスのために「振り向く」こと、自分にできることをして、いろいろ力を尽くして来たのだろう。そして十字架で主イエスは息絶え、墓に葬られた。それですべて終わりのはずであった。ところが亡骸が消えてしまった。自分の「振り向き」が費えた時に、何もできずに墓の中にたたずんでいるマリアの後ろに、よみがえりのイエスは既に立っていたのである。呼ばれて、振り向いて気付いた。かつてマリアは自分自身の思いや努力で、主イエスを求め続けてきた。しかし今は、主のみ声によって、「振り向く」つまり、それまでと違う方向に、自分の人生の方向を見いだしたのである。その声にマリアは「ラボニ、わたしの先生」と答える。「先生」とは文字通り「先に生きる人」で、生徒や弟子が気付く前に、気付いていており、知る前に知っている存在のことである。その人は、近いけれど自分には決して見えない背中、後ろに立っているのである。

震災の経験を詠う俵氏の歌をもう一つ、「子を連れて西へ西へと逃げてゆく愚かな母と言うならば言え」。「逃げる」とは後ろ向きになることである。後ろを向いて、初めて見えて来る、あるいは聞くことのできる言葉があるだろう。復活のイエスは後ろから声を掛けてくださった。その声に振り向いて私たちもまた、復活の主イエスに生かされて、蘇るのである。主はみ言葉としてよみがえられた。私たちも、そのみ言葉によって生かされ、よみがえるのである。