こういう質問がある。皆さんはどう答えるだろうか。「血液型を聞くと、とっさに、“こんな性格だ”と思う」。「赤いランドセルをみると、とっさに、女の子のものだと思う」。「『親が単身赴任中』と聞くと、とっさに、父親のことだと思う」。「『私には、どうせ無理』と、とっさに思うことがある」。
“アンコンシャス・バイアス”という舌を噛みそうな専門用語を時々耳にする。私たちは、何かを見たり、聞いたり、感じたりしたとき等に、「無意識に“こうだ”と思い込むこと」があるだろう。これを最近“アンコンシャス・バイアス(unconscious bias)”と表現するそうである。日本語では、「無意識の思い込み」、略して「アンコン」などとも言い表されている。先ほどの質問は、それを簡単に検証するための素材である。
但しアンコンは、さらに細分化されて、いろいろな側面があることが論じられている。例えば、「ステレオタイプ」は「(学歴、世代など)ある属性に対する先入観や固定観念で、『みんなこうだ』と思い込む傾向」のことだという。また「ジェンダー・バイアス」は、「ジェンダーに対する先入観や固定観念で決めつけたモノの見方をする傾向」を指す。さらに「正常性バイアス」は「(災害や突発事態の)警告のシグナルを軽んじ、『このくらい問題ない』『自分は大丈夫』と思い込む傾向」のことである。さらにまた「確証バイアス」は、
「自分の考えを支持する情報や、自分が期待する情報だけを集めたくなる傾向」のことで、
「同調バイアス」は「『周りに合わせたほうがいい』等、周りの言動にあわせたくなる傾向」、
「権威バイアス」は「権威があると思える人の言動に対して、『従った方がいい』と思い込む傾向」で、「サンクコスト効果」は「費やしたお金や労力、時間にとらわれて、『やめられない』と思い込む傾向」、「現状維持バイアス」とは「『このままがいい、このままでいい』等、現状維持を好み、変化を避けたくなる傾向」を表し、「インポスター症候群」は「周りから評価されていても、『私にはムリ』等、自分を過小評価する傾向」で、「ネガティビティ・バイアス」は「肯定的な情報よりも、否定的な情報のほうにひきずられる傾向」のことだという。
やれやれ、私たち人間は、いろいろなバイアス(偏りや偏見、先入観、認識の歪みや思考の偏り)に影響を受け、支配されていることかと感じる。それをそのままに放っておけば、いろいろな弊害が生じてくることは無論であるが、同時に、この様なバイアスから幾分かでも逃れる術はどこにあるのか、と暗澹たる思いにもなる。これもバイアスのひとつであろうか。
今日の聖書個所は、ゲッセマネの園で捕縛された主イエスが、総督ポンティウス・ピラトゥスの官邸に連行され、尋問される、という筋立てである。3節「ピラトがイエスに、『お前がユダヤ人の王なのか』と尋問すると、イエスは、『それは、あなたが言っていることです』とお答えになった」。「ユダヤ人の王」と総督が口にしたのは、ユダヤの民衆が「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っている」という訴えを聞いたからであろう。古代ギリシャには「僭主、僭王」と呼ばれ、ポリス内で非合法に独裁政を樹立した支配者があり、本来の皇統、王統の血筋によらず、実力・武力により君主の座を簒奪し、身分を超えて君主となる者が存在した。政治の世界では良くあることだから、そのような類の者のひとりをピラトは頭に思い浮かべて、そう口にしたものであろう。
但し、単純に「ユダヤ人の王」と問うたことは、少しばかり留意すべきである。当時、ヘロデ大王亡き後、ユダヤ全土は3人の息子に分割されたが、ローマ皇帝は彼らを「王」とは認めず、単なる「領主」に留めた、即ち主権はローマにあることを暗黙の裡に示したのである。それだけ「大王」の政治力が巧みだったことが伺える。この問いへの答え如何によっては、主イエスの処遇が、はっきりと明暗を分けるものとなろう。
「ユダヤ人の王か」と問われて、主は「それはあなたが言っていることです」と答えた。現代流に言うなら、さしずめ「アンコンシャス・バイアス」ということになろうか。世間の、他の人間たちの大声、自分の耳に聴こえて来る「噂」に、お前の心は捕らえられてそう言っている、というニュアンスの言葉である。そしてその裏側には、そういう外の風聞や人の噂や言説をひとまず脇において、あなた自身はこの目の前にいる「わたし」をどう考えるのか、何者だと言うのか、と問うているのである。
ピラトは有能な役人であったから、ナザレ出身と聞いて、ヘロデ・アンティパスの所に主イエスを送致して厄介払いを決め込んだが、これによって領主アンティパスは喜んだという。なぜならこのお尋ね者に興味を持って、会いたいと願っていたからであるという。単に暇人の好奇心であろうが、この些細な出来事を通して、12節「この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。」という。ナザレ人の苦難によって、二人に友情が生じたとは、いささかブラックな経緯であるが、政治の世界がこのような力が裏面で働くのを、慧眼の歴史家は見抜いているということか。
「ナザレのイエスについて語ることは、自分自身を語ることだ」という言葉がある。語る当人の主観なしに、純粋に客観的、公平中立な発言はできない、という意味で、聖書学者が徹底した史的イエスの探究の中で見出された真実である。洗礼者ヨハネからバブテスマを受け、神の国の宣教を行い、悪霊を祓い、病をいやし、エルサレムで十字架に付けられて亡くなったナザレ出身のひとりの人を、あなたは誰と呼ぶのか、何ものと言うのか、これは初代教会がすべての人に問うた問いであった。この問いの前に、ローマ帝国の名代である総督も立たされている。そこでは人の噂も風聞も役に立たない。バイアスがあろうとなかろうと、今の自分の精いっぱいを口にするしかない、そう言う場所が確かにあることを、福音書記者は示しているのである。やがてこの問いは、自身を神の子と称するローマ皇帝にも及ぶであろう。
アンコンシャス・バイアスは避けられない。だから何事によらず、何度も繰り返し見て、聞いて、そして口にして、絶えず新しく心を換気するしか、取るべき道はないだろう。「ナザレのイエスを誰というか」は、終わりのない、信仰の歩みの中の問であり続ける。