色々に命名するものである。最近、「オイコス」という名前の食品(ヨーグルト)が売られている。なぜそう名付けたのか不思議に思っていたが、そのメーカーがこう説明している。曰く「オイコスは、ギリシャ語で『家』を意味することから各家庭・個人に末永く身近に感じてもらえるよう、そして、昨日の自分を少しでも追い越すこと・パフォーマンスを向上させることを楽しみとする、スポーツをするすべての人々を応援するべく、自分を『追い越す』という日本語の意味と重ねています」(DanonejapanHP)。
「オイコス(Oikos)」は、古代ギリシャ語で「家」や「家庭」を指す言葉であるが、そこから家計、財産、一族郎党、さらに地域社会等を指すようになった用語である。この語から派生した言葉も多く、私たちになじみ深いのは、「経済学economy」は、「oikos」(家)と「nomos」(法、秩序)を組み合わせたもので、家政や家計を意味する言葉から派生した用語である。また「生態学ecology」は、「oikos」(家)と「logos」(ことば、議論)を組み合わせた言葉で、生態系の研究や、環境問題に関する学問を指している。教会にとって最も馴染み深いのは「エキュメニカルecumenical」、世界教会とも訳されるが、全世界の教会の一致を表す合言葉となっている。この語は、「家オイコス」が「世界オイキュメネー」を表す言葉として意味の拡大がなされたことによる。
やはり人間にとって一番の問題は、どこに我とわが身を置くのか、安心と平安を担保できるそういう場所を見出して、そこに居るということに尽きるだろう。日本語の「住まう」という語は、主に「澄む」から来ているとされている。建物内で寝起きすることで、心が落ち着き、乱れていたものが澄んだ状態になることから、現在の「住む」という言葉が生まれたと考えられている。さらに古くは「住む」は「巣まい」と呼ばれ、鳥の巣のように、人が生活の場を定めることを意味していたという。自分の巣を見つけること、あるいは作ることが生きる課題となる。
今日の聖書個所は、ヨハネの記す長い主イエスの告別説教、遺言の一部を成すパラグラフであるが、まずこう記される、1節「心を騒がせるな」、「心が動揺する、心配の余り気が動転する、激しく胸騒ぎが起こる」という状態、これは誰でもしばしば味わう事柄でもあろう。丁度「身の置き所がない」という表現がふさわしいだろう。いたたまれない状態にあるということ、物事をどうしたらいいのかわからず、不安や焦燥感を感じる状態のことである。但し、何かこれと言ってはっきりした具体的な理由があるわけではないが、落ち着いていられない、不快感を感じ、落ち着かない状態に置かれることでもある。そればかりか、病気を患うことで、病状の進行や治療の影響により、強い倦怠感やだるさを感じ、身体的な不調と精神的な不安が重なることで、そういう状態を「身の置き所がない」と表現されることも多い。つまり「住まい」とは、現住所があるという実際的な意味を超えて、自分の安心、平安、安らぎと直結しているのである。あなたにとって、それはどこにあるのか。
春先から初夏にかけて、カラスが子育てのために盛んに巣作りをすることが知られている。巣材には、外側に木の枝、内側に枯草やコケなどが使われ、市街地周辺で営巣するカラスの巣には、しばしばハンガーなどの人工物が混じっている、いわば鉄骨作り、断熱保温材入りという理にかなった構造物である。電柱に造設されることも多いために、停電が起こる主要な要因になっているという。快適に安全に身を置こうとするのは、人間ばかりではない。
ところが問題は、身体の置き所の問題だけではない。「心を騒がせるな」、これは初代教会に集められた人々の心情を、的確に示唆している言葉であろう。まだ誕生したばかりの赤ん坊のような教会である。迫害や地域からの疎外によって、教会は大海の中に、ひとり投げ出されたように置かれている。時に激しい嵐で大波に見舞われる。先行きが見えず、はっきりとしない雲行きの中では、不安が募り、心がしたたか動揺するものである。これからどうなるのか、どこに向かっていくのか、そもそもどこを目指せばよいのか。目指すべき、目的の場所はどこか。古のイスラエルの人々が、荒れ野を彷徨った時には、神の人モーセがいて人々を「乳と蜜の流れる地」へと導いてくれた。私たちに示される場所は、どのような所なのか。
これはかつての信仰者たちの問題であるばかりでなく、今に生きる私たち自身の問題ではないか。この世の住まいは、どこかに、どのようにか見つけることはできるだろう。年齢と共に、長年住み慣れた居場所を離れざるを得ないこともあるだろう。そして自分の家とはもはや言えないところに身を置き、横たえるしかないとしても、とにかく居場所はあるだろう。ところが問題は、「父と蜜の流れる地」なのである。今は見えないその場所、生と死を超えての向こう側には、一体何があるのか。もちろん「迷わず行けよ、行けばわかるさ」なのだろうが、やはり、しかし、なのである。
2節「わたしの父の家には、住む(場)所が沢山ある」。「父の家」とは、平たく言えば「天国」のことで、そう言われると、憂いも悩みもなく、苦痛も心配も無縁で、永遠の安らぎに満ちて、というイメージが先行してしまうが、文字通りには「神のおられる所」という意味である。その原意からすれば、見えない神が共に居られるならどこでも、天であれ地であれ、過去も、今も、将来も、生きている時も、死ぬ時も、それは父の家に居るということなのである。
主イエスは言われる、そこには、「住む場所、オイコス」が沢山ある。この「住む場所」と訳される用語は、英語の「マンション」に相当する言葉である。もっとも「マンション」とは、この国でいうところの「集合住宅」のことではない。この時代のメガロポリスであったローマの都には、ローマン・コンクリートによって建造された日本型「マンション」も多く建てられ、4階建ての規模のものまであった。現在と違うのは、最上階が最も安価であったということ。なぜなら、重い水を汲んで、上まで運ばなくてはならないからである。高層マンションなど、現在でも電気が止まれば、同じ憂き目を見ることになる。
「オイコス」、ここでは「大邸宅」を指している。ある研究者は、「保養地などでゆっくりと滞在できる場所、持続的に長期滞在が許される場所」と解説している。つまり、「気兼ねなくいつまでいてもいいよ、と言ってもらえる場所のことである。そしてこの場所は、「使徒」とか「弟子」とか、一握りの選ばれた特別の人だけが招かれる、Vip御用達のところではなくて、その気になれば誰でもここを訪れ、腰を下ろし、寛ぐことの出来る場所なのである。そして主イエスは「あなたがたのために場所を用意しに(前もって)行く」と、チェックイン、ルームメーキングまで手配される、というのである、何と至れり尽くせりでありがたいことか。
作家の幸田文氏の随筆集『木』という作品がある。1971年~1984年に雑誌に掲載されたものをまとめているから、かなり高齢になってからの文章である。その中に「えぞ松の更新」という題の一文がある、「ふっと、えぞ松の倒木更新、ということへ話がうつっていった。北海道の自然林では、えぞ松は倒木のうえに育つ。むろん林のなかのえぞ松が年々地上におくりつける種の数は、かず知れぬ沢山なものである。が、北海道の自然はきびしい。発芽はしても育たない。しかし、倒木のうえに着床発芽したものは、しあわせなのだ。生育にらくな条件がかなえられているからだ。とはいうがそこでもまだ、気楽にのうのうと伸びるわけにはいかない。倒木の上はせまい。弱いものは負かされて消えることになる。きびしい条件に適応し得た、真に強く、そして幸運なものわずか何本かが、やっと生き続けることを許されて、現在三百年四百年の成長をとげているものもある。それらは一本の倒木のうえに生きてきたのだから、整然と行儀よく、一列一直線にならんで立っている。だからどんなに知識のない人にも一目で、ああこれが倒木更新だ、とわかる—-とそう話された」。
主イエスはこう言われる。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。つまり主イエスご自身が道となって下さり、その道を歩めば、どんなに迷っていても、道草をしても、途中で疲れて休んでも、遅くとも、いつかは神のおられるところに、たどり着く、というのである。
主イエスご自身が「道」であり、そこを歩むとはどういうことか。幸田文氏は、倒木の上に播かれた種、そこに芽生えた発芽した枝について語っている。「倒木のうえに着床発芽したものは、しあわせなのだ」、「倒木」、倒れて死んで行った木である。その樹が小さな種の住処となって、その上に新しい生命が育まれる。「倒れた木」とは、主イエスの十字架を想い起さないか、その十字架を背負って苦しみの中に歩まれたあの方の歩みを想い起さないか。しかしその方の歩んだその道は、父に至る道であるという。
この幸田氏の文章の終わりにこう記される、「話に山気(サンキ、山中の清涼な空気のような爽快さ)があった。感動があった。なんといういい話か。なんという手ごたえの強い話か。これは耳にきいただけでは済まされない。ぜひ目にも見ておかないことには、ときめた」。「ぜひ目にも見ておかないことには、ときめた」、主イエスを信じて、人生を歩むことは、まさにこれに尽きるのではないか。十字架で切り拓かれた主ご自身の道を、私も歩み、その約束の住まいへと赴きたいと願う。