祈祷会・聖書の学び イザヤ書1章21~31節

「やめられないとまらない」というお菓子のキャッチ・コピーがある。この言葉のように一度始めたら、中々やめられなくなるという「依存」性の高いものが、この世にはいくつもある。人間誰しも、何か人やモノに依存して生きるという性向を有しているから、「依存」それ自体を批判や否定できないとしても、薬物、ギャンブル、ある種の嗜好品等は、心身の健康を損なう重大な危険性をはらんでいるので、過激な「依存」に陥るのを回避して、どこに軟着陸するかが人間の課題なのだと言えるだろう。

食べ物に関して、一度口にすると、中々手が止まらなくなるものに何があるだろうか。ナッツ類はその典型ではあるまいか。最近、山のどんぐりの凶作が、熊の出没の大きな要因と指摘されているが、人間も歴史的にさまざまな木の実を貴重な栄養源といて利用してきた経緯がある。おいしく手軽に口にでき、小腹を満たすことができる、しかし食べすぎれば、後で後悔することになる。「依存」とはまさにそういうものだろう。

今日の聖書個所は、イザヤ書1章、冒頭の第二段落部分である。編集史的な作業が加えられているが、この預言者の語った言葉の基調が、ここに極めて明確に見て取れる。やはり書物の冒頭、書き出しの部分は、個性やそのものらしさを前面に押し出そうとするものである。預言者イザヤ(1~39章、40章以下は活動時期の異なる無名の預言者の言説であると見なされる)は、ユダの王ウジヤ王が死んだ年、即ち、前740年に召命を受けて預言者とされる。エルサレム神殿の祭司であり、神殿内での職務の執行と思しき光景が記されているので、それ相応の身分、職責を得ていたと思われる。8章ではその務めの中で、預言者としての召命を受けたと伝えられていることから、祭司預言者として、あるいは宮廷預言者として立てられた人物かもしれない。活動期間は、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ各王の治世に活動したと言うから、ちょうど前722年に起ったアッシリアによる北王国の滅亡という出来事の渦中に、いわゆる激動の時代に活動した預言者の一人、とい位置づけることができるだろう。

彼は南王国ユダの中枢にいたエリートであり、王と面会して意見を述べる立場にもあったが、その考えはしばしば王と対立したようだ。イザヤが活躍した時代はエジプトとアッシリアが勢力を誇った時代であり、その間にあったユダ王国は、イスラエル王国との敵対関係もあって、時に応じて政治的・軍事的に他国と手を結ぶ必要があった。しかし、イザヤの主張は、ただヤーウェの神以外に頼るなというものだった。彼にとっては、力の論理に振り回されるのは愚かなことであり、歴史の背後に働いている神の力に頼ることだけが大事だったわけだ。このため、アッシリアに援助を求めたアハズ王の時代には、イザヤはエルサレムでの公的活動の禁止を持って遇されたこともあった。ちょうどその時期の雰囲気を伝える言葉が、この預言書の冒頭部分に伝えられている。

1章の掉尾、29節に「慕っていた樫の木のゆえにお前たちは恥を受け/喜びとしていた園のゆえに嘲られる。お前たちは葉のしおれた樫の木のように/水の涸れた園のようになる」と語られ、「樫の木」について言及される。これは原文では「エラー」という言葉で、協会共同訳では「テレビンの木」と訳出されている。この木は「ウルシ科カイノキ属(Pistacia)」で、パレスチナに5種生育していると言われるが、その中で私たちになじみ深いのが、「ピスタチオ」の実を結ぶ種類である。

聖書において「ピスタチオ」が言及されるのは、創世記のヨセフ物語の中で、年老いたヤコブが息子たちに気難しく奇妙な振る舞いをするエジプトの宰相(実はヨセフ)への贈答品に、その実を手土産に持参するように助言していることで有名である。すでにパレスチナではその実が特産品であり、諸外国にも嗜好品として大いに珍重されているたことが伺われる。今日の個所でも「慕っていた樫(テレビン)の木」という具合に、イスラエルの人々が、この木に親しみ、愛慕していたことが語られるのである。

ところがその「慕うべき木」が、今や「葉のしおれた木のように」なって、「恥と嘲りを受ける」と宣言されるのである。これは一体どのような事態を指しているのか。1章の預言は、全体的に隠喩的な修辞によって語られているが、どれもユダ王国の堕落を論う言葉である。とりわけ23節「支配者らは無慈悲で、盗人の仲間となり/皆、賄賂を喜び、贈り物を強要する。孤児の権利は守られず/やもめの訴えは取り上げられない」という文言は、他の預言者も口をそろえて語る為政者の不正の有様を語る典型的な言葉である。

為政者の不正とは何か、ここで預言者の活動の期間中、どの時代に対する発言かはっきりと特定できないが、分裂した北王国とシリアの連合がユダに対アッシリア同盟に加わるべく強迫した際に、アハブ王がそれに対抗してアッシリアに援けを求めた政策への強い批判が込められていると受け取ることができるだろう。22節「お前の銀は金滓となり/良いぶどう酒は水で薄められている」という文言や、25節「灰汁をもってお前の滓を溶かし不純なものをことごとく取り去る」という文言から、ユダが本当に保つべき神への誠実さ、純粋さを失ってしまっていることを、預言者は憂いているように読める。シリア・エフライム連合に加わることも、アッシリアに与することも、どちらにしてもイスラエルの神への信頼ではなく、人間の力やわざに頼ろうとすることで、根は一緒だからである。

そしてそうした二枚舌の政策の行き着くところが「慕っていた樫(テレビン)の木のゆえにお前たちは恥を受け/喜びとしていた園のゆえに嘲られる。お前たちは葉のしおれた樫の木のように/水の涸れた園のようになる」。「テレビンの木」、「エラー」とは、「神」と同じ音価を持つ言葉である。「神(エル)を慕う」といいながら、「葉が萎れた」木なのである。そうしたところに、おいしく香ばしいピスタチオの実が実るだろうか。

ピスタチオは、ヤコブがエジプトの宰相への手土産としたイスラエル特産の木の実である。口に入れれば「やめられないとまらない」香ばしい味が拡がる。「依存」について、心理学者は語る、「自立」は「依存」によって裏づけられる(河井隼雄)。結局、人間の自立は、何にも頼らずに自分だけの力でやっていくことではなく、何に頼りながら自分の足で歩むかに尽きるだろう。親に手を引かれて歩み方を学んだ子どもは、やがて自分の足で歩み始める。成長して、真の導き手が誰かを指し示すようになるだろう。イスラエルの歩みが常にそうであってように。