順番決めや選抜のための手っ取り早い方法に「じゃんけん」がある。「じゃんけん」をする時に、はじめの掛け声「最初はグー」は、この国でよく知られたコメディアンが始めた慣わしだと言われる。かつて「怪物」とも呼ばれ、テレビの高視聴率を誇った公開番組で、「ジャンケン決闘」なるコーナーがあり、そこで披露したことで一般に広まった。お笑い番組の影響力の大きさを思う。さらにその元には、飲み会で支払いを決めるじゃんけんのタイミングが合わなかったためという、皆、酔っているし、ズルして後出しする者もいるというので、そのコメディアンが「最初はグーで合わせよう」と提案したのがきっかけとされている。たかが「じゃんけん」と言えども、人間が一つになる、一致するというのはなかなか難しいものである。
「一体感」と題される小文がある、少し紹介したい「人は何によって一つになるのでしょう。一つの目標を目指すことにおいてでしょうか。思想や信仰を同じくすることにおい
てでしょうか。そういうことで。一休感を味わう人もあります。しかし、そこには人間への誤解かあるように思います。人は、共通のものに関わることによって。一つになるように見えて、実は、共通の事実を内に自覚するまでは、一つにはなれないものではないでしょうか」(藤木正三『灰色の断想』)。
同じ目標や思想、理想、信仰で人は「一つ」になるのではない、「共通の事実を内に自覚する」ことが、人をして一つに結びつける、と筆者は主張するのだが、では「共通の事実」とは、何を指すのだろうか。今、私たちは、ひとつの教会で、ひとつの時を共にし、ひとつの礼拝に集っている。この「一つ」を支えているのは、共通の事実とは果たして何であると思われるか。
今日はコリントの信徒への手紙一1章から話をする。この書簡で、著者、発信者パウロは、コリントの教会に生じているさまざまな具体的な問題について、一つひとつ取り上げて答える、という形式で記している。「わたしは植えた、アポロは水を注いだ」と評する如く、手塩にかけて育てたコリントの教会を、その後、よんどころない事情によって遠く離れて、中々訪問できないでいるパウロに、教会からも現状の様子が伝えられたのである。いろいろ教会内で生じてきた問題について、どうしたらよいかを尋ねた人がいたのである。今日の個所では「クロエの家の者から知らされた」と語っている。そしてこの教会で起こっていた問題は、現代でも人間の集まる所では、等しく生じてくる事柄ばかりなのである。今日の個所は、手紙の冒頭部分だが、ここに記される問題は、やはりコリントの教会の一番の難問だったのだろう。コリントという町は、2つの良港を抱えた港湾都市であり、流通の要衝であったと言われるが、現代のギリシャでも同じような状況にあると言われる。やはり「都市」というものは、時代を超えて同じ課題を背負うことになるのだろうか。
11節「わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました」。「クロエ」とは女性の名前である。奴隷や召し使いを何人も抱えて家業を営んでいるというニュアンスであり、この豊かな商業都市にあって、手広く商売をするキリスト者、女性経営者がいたのだろう。このこともまたコリントという町の現実を如実に伝えるものであろう。召し使い、あるいは奴隷のひとりが、教会の現状を憂いてパウロに訴え、明らかにしたということだが、女主人の命を受けているのは間違いない。教会の現状を「会社経営」の見地から見たならば、致命的な状況、倒産の危機が生じているとの危機感の発露であろうか。それも差し当たっての金銭の問題ではない。
教会に「争い」があるという。この用語を「喧嘩」と訳す翻訳者すらいるが、「紛争は議論、喧嘩の意味であって、分離までには至らず、分離の前段階をなしている状況である」等と説明されている。分裂の一歩手前である。どんな争いか。12節「あなたがたはめいめい、『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケファに』『わたしはキリストに』などと言い合っているとのことです」。どこにでもあるような光景である。教会員が小さなグループ、派閥や会派という程ではないにしても、を作り、気の合う仲間内だけで親しく交わり、よろしくやっている、という雰囲気であろうか。
この国でも「多様性」が否定、肯定とひじょうに話題となる時代である。「人種のるつぼ(ひとつに溶け合う)」、「サラダボール(素材はそのまま)」、「パッチ・ワーク(異質なもののつぎはぎ)」等、現代のグローバル世界の有様について、いろいろな喩えで語られるが、国や国籍という大きな集団から見て、はるかに芥子粒ほどの小さな集団である「コリント教会」の有様がこれなのである。人間というものの本質が見えてこようというものである。家族で、今度の休みにはどうするか、と話題になる。家族に語り合える話題があるというのは恵みだが、そこで父は「博覧会に行こう」という。母は「静かな温泉に行きたい」。姉は「テーマ・パークに行きたい」、僕は「家でゲームがしたい」。希望はバラバラ、家族としてどうするか、みんなひとり一人づつ、それぞれやりたいことをしたらいいではないか、と言われるだろうか。小さな家族すら「多様性」が問題となる。
「わたしは誰それにつく」というのだが、「パウロ」は素よりコリントの教会の創設者である。「アポロ」はアレキサンドリア出身の伝道者であり、教養無双で非常な雄弁家として知られていた。また「ケファ」は、主イエスの一番弟子シモン・ペトロのことである。「キリストにつく」というのは、キリストとの霊的合一を強調する神秘主義者の集まりであったろう。それぞれ自分が頼りとするものの周りに、人は集まるものである。人は自分の見たいものしか、見ようとしない。そしてこの時代の、今もそうだが、グループの結束を強める働きは、何より一緒に食事をすることである。コロナ禍中でも、かつてオンラインで飲み会をする、という試みが伝えられた。それで楽しいかどうかはともかく、やはり一緒に飲み食いをしなければ関係がばらばらに断ち切られるという思いが背後にある。
コリントの教会の何が問題なのか。初代教会の礼拝は、何より集まった人が食事を共にする愛餐に他ならなかった。つまり仲のいいグループ同士に分かれて、勝手にてんでんばらばらに食事をしているような状況では、皆が心を合わせ、ひとつになって共に祈り、賛美を合わせ、共に主のみ言葉に聞く、という塩梅にはならないのである。他の事柄ならば、ばらけることもあろう。しかし礼拝において、てんでんばらばら、皆、自分勝手に語り、勝手に信じ、勝手におしゃべりしている、これはもはや教会ではなく烏合の衆である。そればかりか、軽んじられ、どのグループにも招かれない人、交わりを結ぶ価値なしと、無視される者まで出て来る始末である。結局、コリントの教会の問題の根は、ただ人間に、人間の知恵に、そして人間の地位や働きにのみ、人々の目が集中しているという事実である。そして人間へのこだわりは、その力や強さ、地位や優秀さばかりを追い求めることになる。結局それは「多様性」という名の分断を生み出したのである。
最初に投げかけられ問い、「共通の事実を内に自覚するまでは、一つにはなれないものではないでしょうか」、これに文章はこう続く「そして、おそらく罪をおいてほかに、その共通の事実に出会い得ないでありましょう。罪において一つ。一休感に内容を与えるのはこれです」。「罪」そのものが私たちを一つにする、というのではない。ひとり一人の罪は同じではない、ひとり一人皆、生まれも境遇も違うように、罪もそれぞれ別々の「的はずれ」の中にある。それをひとり一人負いながら、主イエスのみもとに行くのである。否、こちらから行くのではなくて、どうにもできないでいる私たちの方に、十字架の主がお出でくださり、その罪ある私に触れて下さった。「主イエスの方から」、ここに「一つ」への道が開かれている、ということであろう。
今日は、礼拝後に修養会が開かれる。「教会とわたし、教会との出会い」というテーマで、兄姉の証を聞き、語り合う。教会は、誰か人の家ではなく、主イエスのおられる家である。藤木氏がこんな文章を記している。「じゃんけんするときに、『最初はグー、じゃんけんぽん』とやります。私たちイエス・キリストを信じる者は、何をするにも『最初は感謝』、そして『じゃんけんぽん』とやりたいものです。私たちは、主にあって『空き家』ではないのですから。『最初は感謝』、これを忘れると、後は私たちのやることは、どんなに熱心でも、どんなに正確でも、どんなに大きな結果を得ても、そして、どんなに人に喜ばれても、『空き屋』のわざになり、汚れた霊は、いつの間にか戻って来ているでしょう(魂が空虚では、悪霊の住処とか化す)。よい結果を得た、そして、どんなに人に喜ばれても、そういうことだけで満足してはならないでしょう。それでは掃除をして、きちんと整えているのと同じことであり、『空き家』でも、それくらいのことはできるのです。私たちは、気づいていなくても、実感していなくても、そのままで神が共にいてくださるのであり、『空き家』ではないのです。どんな状態におかれても、まず何をするにあたっても万事、『最初は感謝』、そして『じゃんけんぽん』とやりたい」(『系図のないもの』)。
「教会とわたし」、招かれるとしか言いようのない不思議な導きがある、その後ろに私たちの罪のために十字架に歩まれている主イエスがおられる。この主イエスの背中こそ、ひとつの事実であろう。