2025年クリスマス・イヴ礼拝「飼い葉桶に寝かせた」ルカによる福音書2章1~20節

クリスマスおめでとう。今年も喜びの内にクリスマスを祝うことができ、心から感謝したい。この国では、12月7日は「クリスマス・ツリーの日」とされ、1886年(明治19年)に横浜の明治屋で、この国で初めて飾られたことに由来するという。この日に因んで、全国でいろいろな変わり種ツリーが飾られた。大阪ではクリスマス・ツリーならぬ「クリスミャク・ツリー」、みゃくみゃくがツリー一面に飾られている。「クリスマス・ブリー」と命名されたものも。とある水族館が設置したツリー、一面に魚のブリがあしらわれている。どちらも見る人に「かわいい」と評判だとか。

この日、ある放送局のニュースでこう報じられた「イエス・キリストが生まれた町とされる、イスラエル占領下のヨルダン川西岸地区ベツレヘムでは、ガザ地区での戦争が始まって以来、2年連続でクリスマスの公的な祝賀行事がすべて中止されていた。しかし、10月10日にイスラエルとイスラム組織ハマスの間での停戦が発効したことを受け、このキリスト教の聖地は今年、クリスマスの祝祭を再開した。聖誕教会前の広場に設置された伝統的な巨大クリスマスツリーにも、イルミネーションが点灯された。地元住民は、キリスト教徒もイスラム教徒も、クリスマスツリーの前で自撮りをしている。少数ながら、外国人観光客の姿もある」(BBC News japan)。この出来事が、平和への緒になるように、祈るばかりである。

一冊のクリスマスの絵本を紹介したい。『ひとりぼっちのみゃー、クリスマスの夜に』、え・ぶん共、たしろちさと氏の手になる作品である。「あるまちにひとりぼっちのねこがいました。なまえはミャー。やせっぽちでおなかをすかせた、みすぼらしいねこ。あしたはクリスマス。まちのひとたちはみんな、クリスマスのおいわいをしています。でも、ミャーにはクリスマスのごちそうはありません。クリスマスをいっしょにいわうかぞくもいません。ミャーはさむくてふるえていました。そらからゆきがおちてきました。『あったかそうだなあ、ぼくもだんろのひにあたりたい……』まどのなかから、まっしろなねこがいいました。『まあ、きたないねこ。ここはあたしのおうちよ、あっちへいって』『おなかがすいたなあ。なんていいにおい』『こらこら、しっ、しーっ。ここにはおまえにやるたべものはないぞ』ゆきはどんどんふってきます。さむいなあ、さみしいなあ、なんだかなみだがでてきた。『あのじどうしゃのしたでやすもう』ミャーはじどうしゃのほうに、あるいていきました。ところがじどうしゃのしたには、おおきなねこたちがひそんでいたのです。『ここはおれたちのなわばりだぞ!』ねこたちはおいかけてきました。ミャーはにげました。いきがきれていまにもころんでしまいそうです。ミャーはおおきなふくろににげこみました。そして、ふくろのいちばんおくにかくれました。おおきなねこたちは、きづかずとおりすぎていきました。『ふくろのなかはなんてあったかいんだろう……』」。

クリスマスとは、主イエス・キリストの誕生を祝う日である。神のひとり子が、人間の赤ん坊として、この世にお生まれになった。私たちもかつて、世に生まれ出た誕生の日があった。それと同じように、ひとりの女から、神の子が誕生した、と聖書は記している。

聖書が記す、初めてのクリスマスの様子、その次第を、先ほど読んでいただいた。主イエスの誕生の次第はこうである。「彼ら(マリアとヨセフ)がベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて初めての子を産み、布にくるんで、飼い葉桶に寝かせた」。「かいばおけ」とは、牛や馬が食べる「えさ(わら)」を入れる桶のことで、木や石でできている。皆さんが誕生した時に、初めて寝かされた場所はどこか。まさか「かいばおけ」に寝かされた人はいるだろうか。うちは貧乏だったから、と言っても、おそらく小さな布団やベビーベッドに寝かされたことだろう。なぜ「かいばおけ」なのか。こうその理由が記されている。「宿屋には彼らの泊る所がなかったからである」。この章句こそ、クリスマスとは何かを端的に物語るみ言葉である。故郷をはるか離れて、旅の空の下にある若い夫婦の間に、赤ん坊が誕生する。生まれ出たその子は、飼い葉桶に寝かされたという。なぜなら彼ら、マリアとヨセフ、そしてその赤ん坊には、「泊まる場所」、もう少し正確に言えば、正確には「心と身体の置き所、居場所」がなかったから。

「かいばおけ」は、二千年前のベツレヘムの家畜小屋ばかりでなく、現在の今日、この時にも、私たちの目からは隠れて、様々な所に置かれている。9日配信のユニセフ・ニュースを少し紹介する。「2週間前、私(ユニセフ職員テス・イングラム)はガザ市の新生児集中治療室で、生んだばかりのモハメッドちゃんを見舞う、ファトマさんに会いました。モハメッドちゃんは早産で生まれ、体重はわずか1.5キログラムでした。ファトマさんは、妊婦検診を受けビタミンや栄養価の高い食品を摂取できた最初の妊娠とは違って、『今回の妊娠は、避難生活、食料不足、栄養不良、戦争、そして恐怖に満ちていました』と私に話してくれました。彼女は、妊娠期間中の 3カ月間は栄養を満足に摂れず、3度も避難を余儀なくされ、さらにわずか2 カ月の間に幼い娘と夫を空爆で相次いで亡くしたと語りました。

私はこの 2 年間、ガザを何度も訪れ長い時間を過ごしていますが、病院で、栄養クリニックで、家族が身を寄せるテントなどで、戦いが母親と乳児たちに与えている世代を超えた影響を、ほぼ毎日、目にして、耳にしてきました。それは、血や外傷ほど目に見えるものではありませんが、至る所に存在しています。あらゆる場所で見られるのです」。ガザに置かれている無数の荒れ果てた「かいばおけ」、そしてこの国でも、賛育会病院で今年から運営され始めた「ベビー・バスケット」、そこに新しい生命が誕生し、そこに寝かされているのである。

「彼ら(マリアとヨセフ)がベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて初めての子を産み、布にくるんで、飼い葉桶に寝かせた」。しかしそこ、「かいばおけ」にこそ救い主は誕生される。非力の赤ん坊として、しかし確かにそこに、神は人間として生まれ、この世界にやって来られたのである。

最初の絵本はこう続く「『ふくろのなかはなんてあったかいんだろう……』ミャーはねむってしまいました。ミャーはとんでいるゆめをみました。とりのように、どこまでもどこまでもとんでいって……。『おやおや!』『おまえはどこからきたの?かみさまがサンタにくださったプレゼントかな?』」。居場所のない、行く宛のないミャーが、サンタクロースの袋に入り込んで、サンタクロースのための最上の贈り物となった。「かいばおけ」の中の赤ん坊こそ、神からの贈り物である。今、世界の暗闇の中に置かれた無数のかいばおけ、そこに生まれ出た子どもたちは、神からの尊い贈り物である。それを暖かなおくるみに包んで、あたためるならば、私たちのたましいが逆に暖められるであろう。そこにこそ真の平和、キリストの平和が開かれて行くことを祈りたい。皆さん、クリスマスおめでとう。