世の中には「ノーベル賞」初めいろいろな賞がある。人間の並み外れた功績に対して栄誉を讃えよう、それに続く人が現れ、人間の向上心や努力への追い風となるいだろう、という趣旨である。世の中にはこんな賞もある。「災害救助ロボットの研究開発ですぐれた成果を上げた若手研究者に贈られる『竸基弘(きそいもとひろ)賞』の授賞式が10日、神戸市で開かれました。2005年度に創設され、21回目となる今回は、学術業績賞、技術業績賞、奨励賞を合わせて6組13人が受賞しました」(1月17日付東京新聞社説)。この国の「ものつくり」の伝統は、産業ロボットの開発でも、これまで先進的な道を切り開いてきた。技術というものは、必ず追いつき追い越せの競争の渦中にあるが、そのような動きと軸を一つにする「賞」と言えるだろう。但し、「災害用ロボット」と限定して銘打たれているところが興味深い。
記事はこう続く「この賞には、1995年1月17日に起きた阪神淡路大震災と深い関わりがあります。名前が冠されている竸さんはロボットを研究する学生でした。震災時、アパート1階で寝ていて、崩れ落ちた2階部分の下敷きとなり、亡くなりました。子どものころから漫画『ドラえもん』が好きで、人を助けるロボットを造ることを夢見ていました。震災の翌日、アパートに駆けつけた家族や友人が見守る中、レスキュー隊が落下した2階の床をはがして竸さんを収容しました。冷たくなった体のそばにはドラえもんの縫いぐるみがありました。その年の3月には竸さんの友人や松野さん(指導教授)ら十数人が集まって遺品を掘り出しました。ほどなくしてアパートは撤去されました。『その更地を見て、われに返った。私に何ができるのだろう、と考えるようになりました』」。愛する者が目の前から失われる、そして外見では跡形もなくなってしまう。普通なら、もう終わりだ、取り返しはつかない、その人との関係は、終わってしまった、と感じる所であろう。しかし「更地を見て、われに返った(はっとして心に思いがこみ上げてきた)、私に何ができるのだろう」、それがこの「災害救助ロボット」の研究開発の努力を少しでも後押ししようとする『竸基弘(きそいもとひろ)賞』の創設につながっている。喪われた者は帰っては来ないという無力さと共に、それでもまだわたしにできることがあるのでは、ここに人間というものの真実も刻印されているのではないか。
「弟子の召命」に続き、今日の個所は「悪霊に憑かれた人の癒し」の物語である。マルコの描き方は面白い。普通、「宣教」と言うなら、多くの人々を自分のいるところにかき集めて、その人々を前にして、有難い教えを垂れる、というイメージである。ところが主イエスは、自分から出向いて行って、一人ひとりの前に直に立って、その一人に声を掛け、この人の声を聞くことから、始めているのである。「宣教」というものの本質を、特に初代教会の宣教のあり方を、著者は鋭く問題にしているのであろう。
今日の個所は、原文には「するとすぐ」という言葉が添えられている。この福音書の著者は、「するとすぐ」という定型の言葉を頻繁に用いて、それに続く話の口火切りの用語として語り出そうとする。ある学者は、マルコはギリシア語が母国語でなく、それ程堪能でないから、このようにたどたどしい言い方になる、と注釈している。常套句として単純な言葉を繰り返すのは、文章の稚拙さの表れ、その通りだろうが、「するとすぐ」と言い方には、この著者のこだわりもあるだろう。主イエスが動けば、その訪れる所、出会いの場面には、すぐに必ず事件やドラマが起こって来る、常に新しい物語が始まる、と言いたいのである。主イエスと共に歩む時に、今の私たちにも、同じように、新しいドラマ、新しい物語を目の当たりにすることになる。たとえ自分の目の前に、すべて取り去られて「更地」が拡がっているような人生の情景があるにしても。
今日の個所では、主イエスは、けがれた霊に取りつかれた人と出会われる。聖書の注解書では、「古代では病気の原因はよく分からなかったから、悪霊の仕業と見なされた」、という注釈が加えられる。確かに現代の私たちにとっても、ウイルスや細菌が原因で起こる感染症等は、「悪霊」と呼ぶにふさわしいかもしれない。次から次に姿かたちをコロコロ変え、変異株となり、ようやくひとつ収まったかと思えば、またすぐに新しい変異株が横行し、パンデミック、爆発的に感染が広がる、そしてその新顔がどんな悪さをするのか、その強さもすぐには知りえない。さらに身体を蝕むばかりか、人間の心にも、身体以上のダメージ、疑心暗鬼、不安や不信をもたらすとも言えるだろう。まさに現代の悪魔、悪霊である。
ここに登場する悪霊は、人に悪さをするだけではない、非常に不気味なことを口にする。24節「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」。まずこの悪霊は「ナザレのイエス」と主イエスの名前(本名)を呼び、仇に対する如く恫喝をしている。古代において「名前(本名)を呼ぶ」とは、相手を特定し、他から切り離し、名を呼ばれた者を縛り付け、自分の支配下に置こうとする呪いの行為である。だから本名はごく限られた身内、しかも年かさの親だけが口にするくらいで、他人は本名ではなく字名で呼んだという風習もかつては存したのである。現在では、芸や力を磨き、それで他と競い合い、世渡りをする者は、本名は使わず、しこ名や芸名を用いる、という習慣にその名残が認められる。
さらにご丁寧に、悪霊は主イエスという方の存在の本質をも鋭く見抜いており、それを口にして、相手の力を封じようとさえするのである。「お前の正体は分かっているぞ、神の聖者さまだ」。確かに、「隠しても駄目だ、お前のことは裏も表も全部お見通しだ、乙に澄ましてやがるが、お前の本当の顔はこんなだろう」と喝破されたら、確かに相手がビビることは間違いない。さすがに悪霊である。
しかし悪霊の悪霊たるところは、この一語に端的に現れている。「かまわないでくれ」、この言葉は直訳すると「俺とお前は何の関係もないのだぞ」、この言葉は平たく言えば「関係ない」という縁切りの啖呵である。この言葉がこの国で、当り前のように使われるようになったのは、1970年初頭頃からだという、あるドラマが放映されて、主人公の印象的な台詞として語られた「あっしには関係のないことでござんす」。これが現在では「自己責任」と名前を変えて至る所で独り歩きをしている。本来、「自己責任」とは、自己の資産を投機する時に、経済の変動で損失が出ても、それは自分の責任ですよ、誰のせいにもできないですよ、という意味合いだった。それが今や人生や生活、生命にかかわることまでに、拡大されて理解されたのである。こんな乱暴な話はない。
ところが悪霊の言葉は、そういう現代を先取りしているのである。「お前とは関係のない話だろう、それはこいつだけの問題で、この人間の自業自得、自己責任なのだから、放っておくがいいさ」。マルコは「関係ない」という言葉を悪霊の口に乗せて、悪霊の語る言葉として、私たちの前に鋭く問いかけるのである。あなたがたは「関係ない」と言って切り捨てるのか、それでおしまいにするのか。それは自分自身の人生の扉すらも、すべて「関係ない」と閉ざしてしまうことになるのではないか、そもそもナザレのあの方は、主は、「関係ない」と言って冷たく生きられたのか。
「イエスが、『黙れ。この人から出て行け』とお叱りになると」、主は「関係ない」という言葉が語られることを、お許しにならなかったという。「黙れ」という非常に強い言葉で制している。「関係ない」という言葉は、それが無意識だとしても、人間と人間の分断を創り出し、人間と人間の関係をずたずたに引き裂いて行く。だからこそ悪霊の言葉なのである。人間が語るべきでない、言えるとしても、簡単に言ってはならない言葉というものがある。それを古代人は「呪い」と呼んだ。だからこそ「黙れ」なのである。「関係ない」この言葉の不気味さを、私たちはもっと心する必要があるだろう。
しかし他方、逆説的だが、この悪霊の言葉は、マルコ福音書の最初の信仰告白であると、聖書学者たちは指摘する。つまりいわゆる人間による信仰告白は、8章でペトロによって口にされるまでは、成されることはない。却って悪霊たちの方が、こぞってナザレのイエスの真実を見抜き、それをそのまま口にしているのである。それは現在の式文のように整っている告白ではなく、乱暴で言葉足らずで、手前勝手な告白かもしれない、しかし主は、これら悪霊の乱暴に語られる言葉に、真っすぐに向き合い、それに答えられるのである。もしまことの信仰というものが口にされるとしたら、形の整った、バランスのいい、耳に快い、告白という形で、皆で口をそろえて、息が乱れることなく整然と語られるものだろうか。かえって破れの中で、痛みの中で、混乱の中で、ただ主イエスだけを見上げて、「助けてください」と何とか訴えるのが、関の山ではないか。しかしその乱雑な私の言葉に、主は答えられるのである、「あなたの信仰があなたを救った」。
新年恒例の宮中行事、「歌会始」(1月14日)で、入選者のひとり、和田美希氏(36歳の三児の母)の歌が話題になっていた。『せがまれし地雷処理車の説明にながくなるよと前置きをせり』。この歌の着想を得たのは子供たちとの会話からだったという。「図鑑がマニアックなもので地雷原処理車という地雷を取り除く車、どういう車なん、どんな働き方なんって(子どもが)めちゃくちゃ説明を求めきて。逆に私も本当に明るい社会、世界ってどういうことなんだろうって問いをもらったような気持ちになった」。「『平和への思いって前からあったんでしょうか?』と聞かれましてそれもあるんですけどむしろ子どもから問いをもらった思いでいます」。小さな我が子から、大きな問を投げかけられて、それに応答する中で、いろいろ自分の中に平和への思いが拡がって行った、という。
「作家の歌を詠んだり日常の出来事を歌にしたりする時間が和田さんにとって至福の時間だという。「どれもすごい大好きです最初そんなにはまると思わなかったんです。やってみたらすごいハマっちゃって。日常がつまならないものからキラキラしていくみたいな詠んでいると出てくると思います」。
「関係ない」と語る悪霊に、「黙れ、この人から出ていけ」と主イエスは厳しく戒められた。主イエスは私たちの破れた関係を繕い、離れた手と手をつなぎ留め、十字架で一つに結び合わせられた。「今だけ、金だけ、自分だけ」の悪霊が跋扈する時代である。そこに主のみ手が拡げられていることを、深く心に思い返したい。「日常がつまならないものからキラキラしていくみたい」、そういう今を生きたい。