わが家(牧師館)の玄関に「崎津天主堂」が描かれた油絵が飾られている。油彩画を定年後の張り合いとして勤しんだ義父の手になる作品である。熊本県天草に位置する崎津集落は「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として世界文化遺産に登録された一つの地域である。そこは有明海に面した小さな漁村であり、今も鄙びてのどかな風景が広がっている。家々が立ち並んだ狭い路地裏を抜けると、海に面した奥まった場所に立つ小さな天主堂は、陸からよりも海からの方が良く見える。海で生計を立てる人の心に寄り添っているようだ。「板子一枚下は地獄」と称される海での生業とする漁民にとって、船から見える天主堂は、実際に自分たちの安全を見守る「キリストのからだ」のように感じられたことだろう。
有明海は、干満の差の激しい海である。干潮になるとずっと沖まで潮が引いていくが、満潮になると道路のすぐ際まで海となる。大潮の時は、数百メートル離れた沖の島まで歩いて行くことができる。海の中に道ができるのだ。しかし気をつけないといけない。潮が満ちてくる速度も早く、うっかりすると帰れなくなる。出エジプトのエジプトの軍勢さながらである。
出エジプトの出来事は、紅海渡渉によって、劇的なクライマックスを迎える。普通なら、神の奇跡的なみ業によって、絶対絶命の危機をまぬかれ、解放へと導かれたことは、イスラエルにとって、神の救済の確かな実現として、深く記憶に刻まれたことであろう。紅海渡渉後に歌われたとされる「ミリアムの賛歌」(21節)は、非常に古い伝承形態を保っており、その時の救いの喜びの息吹を今に伝えるものである。モーセの姉、ミリアムがタンバリンを叩いて歌い、「音頭を取った」とあるから、イスラエルを束ね、方向付けるリーダーのひとりとしての役割を果たしていたことに間違いはない。モーセが民のリーダーとして、イスラエル解放に力あったことは当然だが、モーセの兄アロン、そしてそれ以上に姉のミリアムが、彼を支えたのである。彼女は、持ち前のすばやい機転によって、エジプトの王女に乳母を呼んでくることを進言し、赤ん坊であった弟モーセの命を救い、出エジプトへの道備えをしたと伝えられている。彼女は「女預言者」とも呼ばれているが、隷属のエジプトにあっても、その後の荒れ野の放浪の際も、兄モーセを助けて尽力し、人々の精神的支柱として働いたと想像される。
普通なら、ここで物語は大団円を迎えるが、出エジプト記は、ここから新しい展開、いや、ここまでがプロローグで、これより本筋が始まるのである。40年の荒れ野の彷徨、約束の地までの長い長い旅路の開始である。旧約冒頭の5つの書物、いわゆる「五書」はユダヤ教では「律法(トーラー)」と呼び慣わされるが、その通り、内容の殆どが、神がイスラエルに付与した「律法」が記されている。その律法こそは、40年の荒れ野の放浪の旅と共に語り伝えられると言う体裁を保っている。即ち、「荒れ野の彷徨」こそが、解放の物語の主題であり、本論なのである。
今日の個所では、紅海渡渉のすぐ後の出来事が語られている。今こそ正真正銘、イスラエルは晴れて自由の身になったのである。ところが、彼らは一向に解放を喜んでいない。24節「民はモーセに向かって、『何を飲んだらよいのか』と不平を言った」。水が苦い(硬い)、あくが強いので飲めない、と文句を言ったというである。そこでモーセは一本の木を投げ込んだところ、水がやわらかくやさしい味になった。今、日本は浄水技術の世界的シェアを持っている。電力も使わず、海水や汚水を安全な飲み水にできる「中空糸膜法」という技術が開発され、野外活動用に、あるいは災害避難用に携帯品も市販もされている。もっとも昔ながらの簡単な浄水法として、棕櫚や砂利や炭を使って浄水する方法も知られている。モーセが試みたのはそう言うことかもしれない。今ならば「木」とは活性炭のことであろうか。
しかし、聖書のメッセージの中心は、そこにあるのではない。水が苦いと、文句を言えば、それで甘くなるわけではない。ならば何とかならないか、工夫する道や方法を考えよう、これがイスラエルの民には決定的にかけているのである。神の約束、み守りがある、その約束によってエジプトから導き出され、自分たちは自由の身になった。神は、その強いみ手を示され、ファラオの軍勢の馬と乗り手とを海に投げ込まれたではないか。そこには主の深い憐れみと恵みが示されたのである。今、その神の導きによって、いつ終わるとも知れない荒れ野の旅をたどっているのである。人の目からは「荒れ野」は確かに不毛の地、何もない空しい場所に見える。しかしそこは「神の恵み」から隔絶された場所なのか。彼らは旅を続け、エリムのオアシスに到着し、荒れ野での癒しの時を与えられるのである。
前章でエジプトを脱出した人々の数は、成人男子だけで「60万」という膨大な数字であることが伝えられている。この60万という数字に込められた象徴的意味が、ここに示唆されているだろう。こんな話題を耳にした。あるインバウンド専門の旅行業者のガイド員が、仕事を終えて帰ってきた。非常に疲れた様子である。同僚が「大変だったらしいな。相手はどこの国の人間だ」、と尋ねると、「ユダヤ人たちさ」と言う。同僚はさもありなん、という顔で「ところで何人くらいガイドしたのかい?」というと、「3人」。「なんだ3人か」、というとガイドは言う。「君だってユダヤ人の大変さは知っているだろう。グループで旅行しているのに、彼らはおよそ一緒に、とかほかの者に合わせる、ということをしない。ひとりがここへ行きたいと言うと、他の者がまったく正反対の場所を要求する。そして彼らは他人の意見は聞かないばかりか、全く妥協しようとしない。常に自己主張し続ける」。
この60万と言う数字は、イスラエルの人々の持っていた、問題の大きさを表す数字であろう。たかが三人、一日でプロのガイドを疲れ果てさせてしまうほどの、人々である。そのイスラエルらしさ、「かたくなさ」、その大きさと、深刻さ、これがつぶさに語られるのが、荒れ野の40年の旅なのである。その一番の救いは、神がイスラエルを決して見放さなかったという大いなる事実に、収斂しているであろう。
「崎津教会」を立てたのは、潜伏キリシタンの末裔たちである。彼らの祖先はパードレ(神父)が去った後も、彼らは数百年にわたって荒れ野の旅を続け、自らの信仰を保ったのである。彼らはアワビの貝殻の内側の光沢模様を聖母に見立てて信仰の縁としたという。生活の厳しさの中でも、そこにあらわされる神の恵みを見いだしながら、日々を歩んだのだろう。マラの苦い水も、また、恵みによって変えられるのである。否、変わるのは人間それ自身なのであると言えようか。