『ろくでなし』とか『ろくなことがない』など悪いことばで出番の多い『ろく』。もとは漢字で「陸」と書いた。大地のようにまっすぐで平らな状態のことで、それがゆがんだのを「ろくでなし」と呼んだ。陸の本来の姿がゆがんでいる、と眉をひそめているのは、ことばの世界だけではないらしい。日本でも一般的な『メルカトル図法』の世界地図はアフリカ大陸が実際より小さく見える。これはおかしいと国連に正しい地図表記を求める動きが出ている。角度の正確さから海図に重宝されてきたメルカトル図法だが、丸い地球を平面図にするのだから、ゆがみも出る。赤道から遠い北米や欧州は実際より大きく、逆にアフリカや南米は小さい」(4月24日付「有明抄」)。
「大地のようにまっすぐで平らな状態」を「ろく」と呼んだことは分かるが、実際の「陸」は山あり谷あり、崖あり窪みあり、多様な起伏や変化に富んでいるにもかかわらず、平らと思い込む、ましてや、針小棒大に、過大あるいは過小評価するのが人間というもの、「メルカトル図法」もまた人の為せるわざの隠喩とも言えるかもしれない。「ろくでなし」なのは、人間の常である。
今日の個所は、最後の禍い「初子の死」、そしてそれを機にようようにしてファラオがイスラエルの解放を認めるという場面である。禍が繰り返されるも、ファラオの頑なさは容易に砕かれない。これはエジプト王という特別な地位にある者だけのことではなく、私たち人間一般の性情ではなかろうか。私たちの謙虚さは、その場でそのふりをしているだけのことなのかもしれない。多くはわが身可愛さに、自分の損得や利益を秤にかけて、そう振舞っていると言ったら、言い過ぎか。ファラオも、度重なる禍の中で、一度は寛容に見せて、態度を和らげるが、直ぐその後に手のひらを返したように、再びかたくなな態度に戻るのである。
このファラオの態度は、今日の人間性においてもここかしこに見ることのできる日常茶飯の風景ではないか。各国の指導者たちは、優柔不断に相手に対しての態度を変える。ある時は寛容に、ある時は硬直に、果敢に攻撃的かと思えば、妥協して手のひらを返すこともしばしばである。かの国の大統領は「TACO」(「Trump Always Chickens Out」の頭文字をとった言葉)であると、巷間から揶揄されている。何かと言えばすぐに「高関税を課す」とうそぶきながら、株価や米国債の価格が下がるすぐに手のひらを返したように、朝令暮改する様を評したものである。
周囲の様子、出方を伺い、態度をころころ変えるというのは、政治家のお家芸であるとも言えるが、彼らに限らず、人間というものは、多かれ少なかれ誰しもそういう風に生きている節がある。それでも、そういう二枚舌、三枚舌、煮え切らないあいまいな態度も取り去られる時が必ず来ることを、今日の聖書個所は私たちに示そうとしているのではないか。29節「真夜中になって、主はエジプトの国ですべての初子を撃たれた。(中略)大いなる叫びがエジプト中に起こった」、こういう破滅の時がいつか人間には巡って来る。
故スティーブ・ジョブズ氏が2005年に米スタンフォード大学の卒業式で行ったスピーチは、自らの生い立ちや闘病生活を織り交ぜながら、人生観を余すところなく語り、広く感動を集めたことで知られている。「私は17歳のときに『毎日をそれが人生最後の一日だと思って生きれば、その通りになる』という言葉にどこかで出合ったのです。それは印象に残る言葉で、その日を境に33年間、私は毎朝、鏡に映る自分に問いかけるようにしているのです。『もし今日が最後の日だとしても、今からやろうとしていたことをするだろうか』と。『違う』という答えが何日も続くようなら、ちょっと生き方を見直せということです。自分はまもなく死ぬという認識が、重大な決断を下すときに一番役立つのです。なぜなら、永遠の希望やプライド、失敗する不安…これらはほとんどすべて、死の前には何の意味もなさなくなるからです。本当に大切なことしか残らない。自分は死ぬのだと思い出すことが、敗北する不安にとらわれない最良の方法です。我々はみんな最初から裸です。自分の心に従わない理由はないのです」。
新約の時代において、古代地中海世界を席巻した、ギリシアのアレクサンダー大王は、身の回りを助ける側近の召し使いのひとりに、朝起きる度に「王よ、あなたは死すべき存在です」と言わせたと伝えられる。また中世の修道士たちは、「メメント・モリ(あなたの死を覚えよ)」と挨拶し合ったという。ジョブス氏もさながらそのようである。しかしこういう思考ができるのは、極めて孤高の精神性の持ち主であろう。私たちはここまで、自分を高潔には保てないように思う。では孤高になれない私たちの人生を支えは何か。
今日の個所で、愛児を失ったファラオが、モーセとアロンに告げた言葉が記されている「さあ、わたしの民の中から出て行くがよい、あなたたちもイスラエルの人々も。あなたたちが願っていたように、行って、主に仕えるがよい。羊の群れも牛の群れも、あなたたちが願っていたように、連れて行くがよい。そして、わたしをも祝福してもらいたい」。死の闇の中で、エジプト王はようやくイスラエルの解放を認めるのである。今までモーセに対して負けてなるかと意固地になっていた心が、自分の身近に迫った死によって砕かれるのである。さらに「羊の群れも牛の群れも連れて行くがいい」というように、一番大切な財産もまた「死」の前には、無価値なのである。自分の野望やこだわりや意地、そして財産もまた、死の闇の中では、何の支えにもならないのである。
それではその時に人間に残るものとは何か、ファラオはこう願う、「わたしをも祝福してもらいたい」、これは「わたしのために祈ってほしい、わたしの生命が、魂が、真に支えられるように、神に執り成して欲しい」という願いである。いつか自分で自分の救いを果たすことはおろか。それを祈ることもできなくなるだろう。その時に、自分に代わって、誰か自分のために祈ってくれる人がいてくれる、こういう誰かを見出している人は、実に幸いであると言えるのではないか。
冒頭の文章はこう結ばれる、「面積の大小以前に、その国がどこにあるのかピンとこない。スマホひとつあれば不自由しない世の中である。画面の情報をうのみにして、自分がどこに立っているのか、迷っているかどうかもわからない…。そんな、ろくな目にあわないとも限らない」。要は「ろくでもない」私のために、本当に祈ってくれるのは誰か。主イエスは自分を裏切るペトロにこう告げられた。「あなたの信仰がなくならないように、あなたのために三度祈った。あなたが立ち直ったなら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ福音書22章32節)。誰しも、この主の祈りに生かされているのではないか。