今日は「母の日」である。人は皆、母から生まれる。母を持たない人はいない。私たちが毎週唱える使徒信条にも、「主は聖霊によって宿り、おとめマリアより生まれ」と告白するように、主イエスにも生まれ出た母の存在が強調されている。教会というところは、どこか「母なる存在」、「母性」を豊かに宿していると思う。
この教会の最初期の季報に、教会の様子を伝える一文が目に留まった。教会で子ども会の集まりが催された折り、婦人会手作りのご飯をお腹いっぱい食べた子どもの一人がこう尋ねたという。「どうしておばさんたちは、僕らにこんなにおいしいご飯をたべさせてくれるんか」、すると婦人の一人がすかさずこう答えたという。「わたしらは教会のお母さんだから、遠慮しないでたくさん食べていいのよ」。婦人会のどなたかの言葉かは記るされていないのだが、どなたかは不明だが、その頃の教会婦人の皆がそう思っており、ふと誰かの口から自然に洩れた言葉なのだろう。その頃の教会が彷彿とされる光景だが、現在もそれは変わりなく受け継がれている。今も教会にはたくさんのお母さんがいる。そしてそれは初代教会から何ら変わることのない教会の原風景ではないのか。
詩人の茨木のり子氏の作品に「答」という詩がある。「『ばばさま、ばばさま今までで、ばばさまが/一番幸せだったのはいつだった?/14歳の私は突然祖母に問いかけた/ひどくさびしそうに見えた日に/来し方を振りかえり、ゆっくり思いめぐらすと思いきや/
祖母の答えは間髪を入れずだった/『火鉢のまわりに子供たちを座らせてかきもちを焼いてやったとき』」。この国の原風景を伝えているような作品である。「一番幸せだった時」それはいつか、と問われて、しかも14歳、大人になりかかった「孫」から問われて、「間髪を入れず」に答える祖母の姿がここにある。自分の子どもたちを座らせて、かきもちを焼いてやった想い出、ここにも「食べること」が顔をのぞかせている。炭火で餅を焼く匂い、しょうゆの焦げた香ばしい香り、火鉢の周りの暖かさ、楽しそうなおしゃべりの声まで、聞こえてくるようだ。ここには「人は何で生きるか」を巡る問いと答えが見事に凝縮されている。さて私たちはどう答えるだろう。
今日の聖書の個所は、主イエスの遺言・告別説教の最後の部分である。主イエスが、ご自分の地上の生涯の最期、そしてそれから先のことを弟子たちに告げる。しかし弟子たちはそれが何のことか理解できない。私たちには、それが「十字架」と「復活」そして「聖霊降臨」のことを指すと一応は知っているので、もどかしい思いにさせられる。しかし、この時に、わたしがこの弟子たちの一人として居合わせたら、どうだったであろう。他の弟子たちと同じように、「何のことだろう。主が何を話しておられるのか、さっぱり分からない」と反応したことだろう。おそらくヨハネも、弟子たちもみな、そうだったのだろう。後でこの時のことを思い起こして、「あの時、本当に自分たちは、何も分からなかった、何も悟ることができなかった」という思いになったことだろう。そして人間の本当の姿とは、実に「分からなかった、理解できなかった」という「悔恨」や「後悔」の積み重ねなのだろうか、とも感じさせられる。それは「母」に対しても同様であろう。
しかし「分からない、理解できない」という言葉に、もう一つのヨハネらしい言葉が付け加えられている。「しばらくすると」。ヨハネ福音書は、「時間」、「時」を表す用語をここそこにちりばめて、私たちの時(束の間)、そして神の時(永遠)を象徴的に語ろうとする。つまり私たちの時、日常、生活、私たちの人生に、神の時が横切る、ぶつかる、つながる、関わってくる、というのである。
「しばらくすると」、皆さんはどれほどの時間を想像されるか。「しばらくお待ちください」はどれ程の時間だろうか。この国にも「博多時間、沖縄時間」という言い方がある。宴会や結婚式などに、参加者全員が、ぴしゃっと集まらない。1時間くらい平気で遅れてくる人もいる。そういう時間感覚のことである。皆さんの「しばらく」はどれほどだろうか。「しばらくすると」とはおもしろい表現である。日本語訳の幾つかの聖書を読み比べてみたが、どの聖書も「しばらく」という言葉を使っている。「しばらく」というのは、本来「ほんのわずかの間」という意味。ちなみにギリシャ語では、ミクロンという言葉である。ミクロンは、現代では1ミリの1000分の1を指す単位で、ミクロの世界という言葉もあるように、目に見えない小さな世界である。それほど小さな時の間、というニュアンスだろう。
時間の感覚というのは、非常に主観的なものである。「しばらく」というのも、それがどれ位の長さなのかは、状況次第であるし、人によって受けとめ方が違うだろう。「しばらくぶり」と言うと、それほど短い時間ではない。ある程度経っている感じがする。「今日はしばらくぶりに何々さんが礼拝にお見えになりました」というと、「随分間をおいて」というニュアンスになるだろう。同じ時間でも、楽しい時間はあっという間に過ぎるが、苦しい時間は、言いようもなく長く感じる。「熱いストーブの上に座る5分は、何と長い時間のことだろう」という喩えもある。また「テレビドラマの30分はあっという間なのに、礼拝説教の30分はなんでこんなに長いのか」と感じている人もあるかも知れない。
「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」(ペトロ二3:8)。神の時間(永遠)と人間の時間(有限)が交錯するのが、聖書の時間感覚だと言ってもいい。だから人間の時間だけで、物事と事柄を判断しないようにしたいものだ。「永遠」と言う神の時間の中で、今の私のあり方を考える、これが子育てにおいても、自分育てにおいても、そして終活においても、必要になるだろう。人間の時間には、限りがあるが、それでただはかない、空しいではなく、そこに神が永遠の時間をもって、出会われるのである。
弟子たちにとって、主イエスと共にいる「しばらく」の間は、約3年間であったという、3年間とはどれ程の長さであるか。中学、高校の入学から卒業までの期間は各々3年位の間程であるが、その年月はあっという間に過ぎて、子どもに大きな変化をもたらす。「たかが3年、されど3年である」。しかし、その後の悲嘆にくれる「しばらく」の間は、とても長く感じたことだろう。しかしそれもずっと続くわけではない。「しばらく」の間は、あなたがたを苦しめる者が、勝ち誇ったように喜ぶことになるが、それはやがて過ぎ去る、やがて覆されることになる。そういう風に、主イエスは諭されたのである。
私たちは、この世で、いろいろに苦しみや悲しみを味わう。痛みを覚える。これが後、どのくらい続くのか、先が見えないことも多い。しかし、それは永遠に続くのではない。人間の時、限りのある「間」なのである。真の時は、神が支配されているもので、永遠はひとえに神のものであって、私たちは、神の定められた限られた時を生きるのである。
そうした人間の時間と、神の時をつなぐものとして何があるのか。主イエスはこう語られる。22節「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」。神の時とふれあって生きる者には、「悲しみ」が「喜び」に変わることをいつか知るだろう。主イエスとお会いするからだという。 それはどういうことか、23節「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」、つまり、見えない主が、今、生きて、ここに働いていることを知るだろう、何によってか、それは主イエスの名によって「祈る」ことにおいてであるという。残念なことに新共同訳は一つの言葉を訳していない。「すべて、どんなことも」願いなさい、と主は言われる。あなたのどんな願いにも、思いにも、主イエスは無視なさらず、受け止められるから。神の時の中で、その祈りは、あなたに最もふさわしい、現実、実際のかたちとなって行くから。
冒頭に紹介した詩の続き、「ふぶく夕、雪女のあらわれそうな夜/ほのかなランプのもとに5、6人膝をそろえ火鉢を囲んで座っていた/その子らのなかに私の母もいたのだろう/ながくながく準備されてきたような、問われることを待っていたような/あまりにも具体的な、答えの迅さに驚いてあれから50年/ひとびとはみな掻き消すように居なくなり/私の胸のなかでだけときおりさざめくつつましい『団欒』」。
「50年/ひとびとはみな掻き消すように居なくなり/私の胸のなかでだけ」残っているような、過ぎ去った時は、自分では見たことのない想い出のようになっている。が、それは「団らん」として孫である私の心に息づいている。この束の間の「しばらくの間」は、永遠に繋がっており、その記憶は、孫にまで受け継がれていくのである。かつてある神学者(ティリッヒ)が「永遠の今」と語り、私たちの有限な束の間、短い「しばらくの間」が、神の時に結ばれて行く不思議について、解き明かしているが、実にそれは、「団らん」のようなごく日常の生活のふれあいのなかで起こっている事柄なのである。
「あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」、結局、祈りの行きつくところは、誰も奪い去ることのできない喜びに生きることに尽きるだろう。主イエスはみ言葉によって、その喜びに至る道を教えられ、今も私たち歩みを、失われない喜びに向かわせられる。主イエスもまた、つつましい「団欒」の中に、共に居られる。かつても、そして今も、私の心に、そして教会の中に。