祝ペンテコステ、今日の礼拝は教会誕生の出来事、教会の誕生日、聖霊降臨の日を覚えて礼拝を守る。とりわけ今年、私たちの教会は、創立50年目を迎える。50回目の誕生日を祝うのである。聖書によれば、最初の教会の誕生は、主イエスの十字架と復活、その50日後に起った出来事であったと伝えられる。実に二千回というくらいに誕生日を重ねて来たのである。その時の様子がどうであったのか、今日はそれを記している聖書の記述に目を向けたい。
ある新聞の追悼記事を紹介したい。「小学生の男の子は毎日、日記を書くという課題に苦しんだ。同じような日々の中、書くことが見つからない。そこで、自分で考えた物語を代わりに書くことにしたという。『この人は作家の才能があるかもしれないね』。提出すると先生がほめ、みんなの前で朗読してくれるようになったそうだ。男の子はベストセラー作家になる。『リング』『らせん』など日本のホラー小説を代表する作家、鈴木光司さんが亡くなった。68歳」。
今、令和のホラーブームだという。『変な家』、『近畿地方のある場所について』という題名の作品、ホラー、「こわい話」を聞いたことがあるだろうか。これらの「こわい話」が本や映画となって公にされている。一つ前の朝ドラも「怪談(ばけばけ)」がテーマだった。皆さんは「こわい話」は好きだろうか。学校では生徒が教師に「怖い話を」とねだることがよくある。物の本によると、現実の不安や不満を恐怖が上書きし、放出する、つまり精神的浄化作用の効果を持つという。今は若い世代が交流サイト(SNS)で怖さを共有し、楽しむ文化も広がっているそうだ。古典的な「怪談」ではなく、この国ホラーの原点と言えるのがやはり1998年公開の映画『リング』だろう。呪いのビデオを巡る物語で、ご存じ、テレビ画面から這い出す長い髪の「貞子」の姿は強烈で、世の中の人が震えた。いつも目にしているテレビから、魔物がこの世界に出てくる、というのが目新しかった。
最初の教会の誕生の有様は、まさか「ホラー」と呼ぶことはできないだろうが、それでも「聖霊」(原文には「聖」という文字はなく、単に「霊」と記される)、人ならぬ「霊」が引き起こした出来事だから、不気味で不可解で、訳の分からない事件だったことは明らかである。その現場に居合わせた人々、「天下のあらゆる国から帰って来ていた、信心深いユダヤ人」が皆、「驚き怪しんだ」と伝えられている。その時の様子を、今日の聖書個所は次のように記している。1節「五旬祭の日が来て」、丁度、春分の日から50日過ぎ、季節は初夏を迎える時候である。
「一同が一つになって集まっていると」、この情景は、弟子たち皆が集まって、一同に会して、共に熱い祈りを捧げていた、という風情ではなく、ヨハネ福音書の末尾で伝えられるように、一つの部屋に籠って、閉じこもって、息をひそめていた、という有様だろう。すると「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」
聖霊の働きが「激しい風、大きな音・響き、炎」といった事物によって象徴的に描き出されている。ハイドンの交響曲に『驚愕』と名付けられた作品があるが、子守歌のように眠りを誘うような甘美なメロディに、突然、大きな太鼓の音が響くかのようだ。おそらく著者ルカは、旧約の詩104編3~4節のみ言葉を思い起しているのであろう。「(神は)雲を御自分のための車とし/風の翼に乗って行き巡り/さまざまな風を伝令とし/燃える火を御もとに仕えさせられる」。神の乗り物は、雲であり風である。さらに風をみ言葉を伝える伝令(使いの者)とし、燃える火を(み言葉のための)助け手とする、というのである。激しい風が、神の言葉を運び、人はその大きな音を聞き、その音は人の心に、火をつける、という事態なのだろう。
ペンテコステの出来事は、大きな音から始まった。音の出来事だった、というのである。世の中は、いろいろな音で満ちている。この頃、明け方前、午前3時過ぎになると、ホトトギスの鳴き声でふと目が覚めることがある。「キョキョキョ」というけたたましい音である。古の人は、夜明け前の、いささか耳障りなこの鳥のさえずりを、「亡くなった人の魂を冥界に案内する声」として聴いたとのことである。
「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」、神の起こされる激しい風の音が、弟子たちの上に響きわたり、彼らはその音を聞いたのである。その音は、やがてひとり一人の上で炎となり、堅く沈黙していた魂が温められ、熱を与え、ついに「“霊”が語らせるままに、ほかの言葉で話しだした」。新共同訳では「ほかの国々の言葉」と訳されているが、原文には「国々」という用語は記されていない。人間はことばで生きる存在だから、これまでも仲間内で、いろいろ主イエスの思い出や、懐かしい出来事を思い起こし、それを静かに語り合って、別離の悲しみを癒そうとしたことだろう。しかし外への恐れのために、部屋に籠って扉には堅く鍵をかけて、ひっそりと生きていたのである。いわば、内輪だけで通じる言葉で生きていたのである。
こんな話を聞いた。ある県の小学校でのことだという。コロナ禍の残滓は今もここそこに根強く残り続けている。子どもたちにとって最も楽しい時間であろう給食の時間は、コロナの名残からか、いまだに「黙食」が続いているという。全員が前を向いて、皆、黙って給食を黙々と食べる、その重苦しい雰囲気になじめないで、低学年の女児が泣き出してしまった。見かねた男児が「おいしいよ。一緒に食べようね」と声をかけ、その場は収まったというのである。その子の家では、ご飯を食べる時に、いつも家族の皆が楽しくおしゃべりをして、文字通り美味しい時が流れているのだろう。学校でも仲良しの友だちが周りにいるのに、じっと我慢してただ食物を口に運ぶだけ、その味気なさが、私たちにも伝わって来る。教会のランチの会。でもつのぶえの会でも、そして祝会、愛餐会でも、集った人たちが心置きなく楽しそうに話をしている、これぞ教会だと思う。「重苦しい雰囲気に、泣き出してしまった」。そこに「一緒に食べよう」という一人の子どもの声が響く、このひと言の言葉は、天の声、聖霊の響きに比せられるかもしれない。天から大きな風が吹くような激しい音が、その厚い壁を、堅い鍵のかかった扉を、打ち壊したのである。彼らは「ほかの言葉」つまり「新しい言葉」「外に向かって語り出す言葉」を与えられたのである。
この大きな音を聞き、弟子たちが語り始めた、今までと違う言葉、新しい言葉を語り始めたのである。それを聞いた人々、世界のいろいろな所からやって来ていた人々は、「だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられ」たというのである。弟子たちの語る「言葉」を、懐かしい、自分の故郷の言葉として聞いた、言葉を変えれば「魂に直に響いて来る」言葉として聴いたのである。私たちは、同じ国で生きる者でも、出自が異なり、人生経験は異なり、その人自身にしか知りえない歩みをして、今に至っている。そういう別々の私達が、主イエスのみ言葉を、実に「(魂の)故郷の言葉」として聴いて、ひとつになるというのである。
最初に紹介したホラー作家の追悼記事の続きをもう少し。「先生のほめ言葉が作家への道につながったといえるが、こんなオチがつく。後日、この話をすると先生はこう言ったそうだ。『私の教育方針は、絵の下手な子がいればうまいとほめること』。先生がほめてくれてよかったとJホラーファンは思うだろう」(5月12日付「筆洗」)。私たちの言葉は、「人間のことば」である。だから言葉が足りなかったり、言葉が多すぎたり、言い損なったり、時にそこに悪意が込められていたりする。「そういうつもりでいったのではない」と言い訳しても、発せられた言葉は、元には戻らず、何某かの働きを起こし、出来事を生み出すのである。このやっかいで不完全なことばを、神はご自身のことばとして用いられ、神の出来事を呼び覚まして行くのである。かの先生が、「下手な子をほめる」と思ったとしても、その言葉を通して、神はそのみわざを現わされるのである。
主イエスは「肉となったことば」と称される。私たちの間に、目に見える神のことばとして歩まれたのである。この世界に目には見えないけれど、直に耳には聞こえないけれども、確かに神のことばがあることを、示されたのである。「教会はキリストの体」、目に見えるみ言葉なのである。そのようにこの地に立てられて、半世紀を経ようとしている。今、ここを訪れた人が、教会のことばを聞いて、暖かさと喜びを覚え、心に慰めを受けるなら、確かに聖霊が働いてくださっているのである。