最近「アンコン」という言葉を耳にした。食い意地の張った輩は、甘い食べ物のことかと早合点しそうだが、「アンコンシャス・バイアス」の略で「無意識の思い込み」のことであるという。誰か特定の人に対するものもあれば、何らかのモノや現象についての場合もあり、また「自分はこういうタイプだから、あれはできない」等、自分自身に対するものもある。こういった無意識の思い込みは、何かの可能性を閉ざしたり、誰かに不快な思いを生み出したりするリスクをはらんでいる。これを解消すべく意識変革の様々な取り組みが行われているのだが、やはり基本的に生命は「保守」を志向する傾向があるので、普段の生活、日常に効果的な方法がいろいろ模索されている。
さて今日のテキストに目を向けよう。17節以下「あなたのやり方は良くない。あなた自身も、あなたを訪ねて来る民も、きっと疲れ果ててしまうだろう。このやり方ではあなたの荷が重すぎて、一人では負いきれないからだ」。舅のエテロが婿殿モーセに再会し、その時に語った諫言である。舅だからこそ「あなたのやり方は良くない」という「辛辣な」言葉を語れる、という場面があるのだと思わされる。「モーセは座に着いて民を裁いたが、民は朝から晩までモーセの裁きを待って並んでいた」、「あなたが民のためにしているこのやり方はどうしたことか。なぜ、あなた一人だけが座に着いて、民は朝から晩まであなたの裁きを待って並んでいるのか」、「あなた自身も、あなたを訪ねて来る民も、きっと疲れ果ててしまうだろう」。モーセは一生懸命である、なぜなら大勢の民が自分を頼りにして長蛇の列を作って、ひたすら待っているのである。
このモーセが直面している状況は、この古い昔の時代も、そして現代世界においても、切実な問題であろう。まず、人のいるところ、必ず何かの問題が起こる。会社、学校、そして地域、家庭に至るまで、人間が関係を持ち交わる所には、大小の問題が発生して当然である。人には個性や誇りがあるし、他人の心の内は見えない。さらに人間は自分の損得を計算して保身をすると同時に、損をしても他のために自分を使うという二律背反性を秘めている。そういう人間が一緒に生きているのである。問題が生じないほうがおかしいし、問題があることが問題ではない。ところが問題をそのままにしておくのは、どうにも気持ちが収まらないし、中途半端で居心地が悪い。じっと我慢では腹に据えかねる、それでは何とかしてくれと、窓口を探すこととなる。「モーセは座に着いて民を裁いたが、民は朝から晩までモーセの裁きを待って並んでいた」という具合である。
その窓口であるモーセも、好き好んでそういう立場に身を置いたのではなく、民がエジプトで奴隷であった時からの因縁で、持ち前の正義感から、イスラエル人を虐げるエジプト人を殺してしまい、その挙句の逃亡、さらに神の召命を受けて、エジプト帰還に始まるファラオとの折衝、対決、そしてようようのことで出エジプトを成し遂げる。この一連の出来事を巡って、イスラエル解放の引率者、リーダーとして民と長い旅を共にたどって来たのである。それは半ば押し付けられ、仕方なしに自分の身に引き受けた皮肉な運命とも言うべき道程であった。その帰結の有様が「モーセは座に着いて民を裁いたが、民は朝から晩までモーセの裁きを待って並んでいた」なのである。年長者、そして義父エテロは人生の先輩としてこう諭すのである。「あなたのやり方は良くない。あなた自身も、あなたを訪ねて来る民も、きっと疲れ果ててしまうだろう。このやり方ではあなたの荷が重すぎて、一人では負いきれないからだ」。つまり、「お前は一人で抱え込んでしまっている」と叱るのである。
「ひとりで抱え込む」とは、悩みや問題を誰にも相談せず、すべて自分の力だけで解決しようとすること、あるいは他人に迷惑をかけたくないという思いから、責任を一人で担ってしまう状態を指す。責任感が強く、精神的に自立している反面、孤立しやすくストレスを増大させる傾向があり、時には「断られることへの不安」が他人に頼ることを妨げる要因にもなるとされている。そして組織論では得てして、そうしたマネジメントがしばしば問題とされ、共に分かち合う方向、役割の分担、その実際的方法が示唆される。ところが「抱え込み」というのは得てしてモーセに典型的なように、そうならざるを得なくて、仕方なく、そうなってしまっている、という現実なのである。がんじがらめで、モーセ自身でもどうにもならなくなってしまっているのである。そうして私たちもまた、そのようにして自分だけで「抱え込む」ことになる。
噺の最初に「アンコン、無意識の思い込み」という問題を語った。モーセには、右腕になるような助け手はいなかったか、出エジプトの出来事を通して、彼は民の信頼を裏切り、失望させたことで、不信を買い、随分文句を言われた。それでも彼はただ一人で頑張ったのではない。彼には姉のミリアム(赤ん坊だった彼の生命を救ったのは、この姉の機転であった)、そして口の達者な兄アロン、そして後に後継者となる一番緒サポーター、ヌンの、子ヨシュアが居たのである。そういう助け手、支え手のことを彼は忘れてしまっている・それは目の前の課題にとにかく向き合わねば、というモーセの真摯さ、真面目さの故である。ここにはモーセの「無意識の思い込み」がある。
ところが、もっと深刻な「アンコン」が潜んであるのである。それは何か。モーセは舅にこう言っている「民は、神に問うためにわたしのところに来るのです。彼らの間に何か事件が起こると、わたしのところに来ますので、わたしはそれぞれの間を裁き、また、神の掟と指示とを知らせるのです」。結局、民は、神の言葉を求めている。人間の問題、事件に対して、何が悪い、かにが悪いと原因は取沙汰できるにしても、そこから先の歩みは、未来は、神が開かれるのである。出エジプトもまたモーセの力によって成し遂げられたのではなく、神の御手のわざであった。それを民は目の当たりにしたのである。自分の抱える困難も、不条理、不合理も、神の働かれる器なのである。モーセもまた「アンコン」の中で疲れ果てている。「もし、あなたがこのやり方を実行し、神があなたに命令を与えてくださる(語ってくださることを聞く)ならば、あなたは任に堪えることができ、この民も皆、安心して自分の所へ帰ることができよう」。苦しい時の神頼み、というが喜びながらの神頼みに、目を開きたい。