◎4月の第3主日、復活節・第4主日を迎えました。今日は風雨が激しい朝になりましたが、その中をよくお出で下さり感謝します。先週は熊本で大きな地震が起こり、多くの犠牲者と多大な被害が出ています。今も10万人近い人達が不自由な避難生活をしておられます。一日も早く安心して過ごせるようにお祈りして参りましょう。
◎今日も聖書の御言葉からイエス様のメッセージを聴いて参ります。今日の箇所は、ルカ22:31~38。ここには最後の晩餐の席でペテロと弟子達に語りかけられた主の言葉と深き思いが記されています。今日は、与えられた記事を前半と後半に分けて、それぞれの記事に込められた大切なメッセージを共に聴いて参りたいと思います。
◎まず、前半の22:31~34、ここには12弟子の筆頭であるペトロが主を裏切ることが予告されています。前回、最後の晩餐の席で主がイスカリオテのユダが裏切ることを予告されて弟子達の間に議論が起こったこと、また、誰が一番偉いかで議論になったことが記されていましたが、その時、ペトロはどんな思いでその議論を聞いていたでのしょうか。恐らく筆頭の弟子として余裕をもって聞いていたのかも知れません。そういうペトロに向かって主は「シモン、シモン、サタンが弟子達をふるいにかけることを神に願い出て聞き入れられた。サタンがあなたがたをふるいにかけるだろう」と言われます。これはヨブ記のヨブにサタンが試練を与える場面を思い起こさせます。「ふるいにかける」とは信仰を揺す振り、それが本物かどうかを試すということです。かつて主イエスも荒野においてサタンの試練を受けました。主は御言葉によってサタンを退却されましたが、ここではサタンが弟子達に試練を与えるというのです。それに対してペトロは「私はあなたとご一緒なら牢に入ってもいい、死んでもいいと覚悟しています」と答えます。ペトロは自分の覚悟がいかに強いか、自信を持って主に宣言します。
◎ところが主は、「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴く前に三度、私を知らないと言うだろう」と、ペトロが主を裏切ることを予告されます。その後、主の予告通りに主を知らないと言った所で鶏が鳴き、ペトロは号泣します。ペトロはふるいにかけられ、自分の惨めさ、弱さ、情けなさ、罪深さを知り、自分は信仰のない者だと強く自覚させられます。そのようなペトロがどうようにして立ち直ったのか。それは復活の主との出会いいによってでした。ヨハネ福音書21章にあるように、裏切ったペトロを主は赦し、深く愛しておられることをペテロは知り、立ち直っていきました。ルカ22:32で主はこう言われています。「私はあなたのために信仰が無くならないように祈った。立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさい」と。主はそこまで見通しておられたのです。ペトロは挫折するだろう。しかし、再び立ち直ることと知っておられたのです。彼を立ち直らせたのは何か。それは主の祈りです。主の祈りがペトロを立ち直らせたのです。私たちの信仰も「あって無きがごときの信仰」です。ふるいにかけられ、サタンの誘惑・試練に遭えば負けてしまう信仰です。しかし、主が私達のために祈ってくださっている。だから私たちの信仰は守られているのです。主の愛の深さを思わずにいられません。しかも、主は立ち直ったら兄弟たちを力づけよと教えています。救われた者の使命もまた教えておられるのです。
◎次に後半部分、22:35~38を見てみましょう。ここは最後の晩餐の場面の最後の記事です。この後、主は祈りに行かれた後、逮捕されます。実に緊迫した状況です。ここで主はペトロに続いてすべての弟子達に対して語りかけておられます。その冒頭で主は「財部も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わした時、何か不足したものがあったか」と尋ねます。弟子達は「いいえ、何もありませんでした」と答えます。主はかつて弟子達を町や村に伝道活動に派遣した時のことを思い起こさせます。それに続いて主はこう言われます。「しかし今は、財布のある者はそれを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は服を売ってそれを買いなさい」と。
◎それはなぜでしょうか。その理由は22:37にあります。「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』とあることは私の身に必ず実現する」。『その人は犯罪人の一人に数えられる』とはイザヤ書53:11の御言葉です。これはやがて来るメシアは、人々が正しいものとされるように執り成して、その過ち・罪を担い、苦しむことが預言しています。主はそのみ言葉を引用し、これからご自分がこの世の人々の過ち・罪を担い、十字架に架かり、罪の赦し・救いをもたらすことを宣言しておられるのです。それでは、なぜ、財布と袋(食糧袋)、剣が必要なのでしょうか。それは、主が十字架に架かった時、弟子達の信仰が失われるからです。信仰が失われると、不安と恐れに襲われ、神ではなく、物や武力に頼るようになる。つまり、弟子達が不信仰に陥ることを予告しておられるのです。実際、主が十字架に架けられた時、弟子達は逃げていきました。しかし、弟子達はそこで終わることはありませんでした。十字架に架かられた主は、やがて復活し、弟子達の前に現れ、「平安あれ」と語り、弟子達を励まし、立ち直らせました。主はそこまで見越して弟子達の不信仰を予告されたのでした。弟子達は挫折の後に立ち直りました。それは主の祈りによります。私達のためにも主は祈り続けておられるのです。