説教『神の御心を第一として』(ルカ22:39~46)

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◎今、初々しい若葉が日々、大きくなっていることを感じさせられる季節を迎えています。今日の礼拝後には教会総会が開催されます。新たな目標と課題に向かって私たちが心を一つにして歩んで行けるよう祈りつつ、総会に臨みたいと思います。そのような主日に与えられている聖書の御言葉は「ゲッセマネの祈り」の場面です。主が十字架を前にして祈られた最後の祈りの場面です。ここには汲み尽くすことのできない実に豊かな恵みがたたえられています。今日は、この記事を取り上げ、祈るとはどういうことかを知ると共に、このゲッセマネの祈りを通して示されている十字架の意味、そして、復活の意味を読み取り、そのことを心に刻んで参りたいと思います。

◎まず、この記事から「祈るとはどういうことか」を心に留めたいと思います。そのことについて、3つのことが教えられています。第一に「いつも祈る」ということです。ルカ22:39には「イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると」とあります。イエス様にとって祈ることはいつものことでした。福音書には「イエスは朝早く、まだ暗い内に起きて、人里離れた所に出て行き、祈っておられた」という記事に見られるようにいつも父なる神に祈っておられました。主にとって祈るとは日常のことでした。昨年、ルーティンと言う言葉が良く言われましたが、主にとって祈りとは生活習慣以上のもの、必要不可欠のものでした。祈りとは、神の命を受けることです。神の愛・恵み・祝福を受けることです。また、神の御心を教えてくれるものです。だからそこから自己を反省し悔い改め、また、神の恵みに感謝し神を讃美することが生まれます。祈りとは父なる神との交わりの時、命のやり取りの時です。私たちは毎朝、仕事の前、いつものように祈る生活を築きたいものです。

◎第二のことは、「誘惑に陥らないように祈る」ということです。22:40に「誘惑に陥らないように祈りなさい」と主が弟子達に教えた言葉があります。祈りは私たちが誘惑に陥ることから守ってくれるのです。この世には、誘惑が満ち溢れています。その中には私たちの命を危機に陥らせるものも多くあります。その誘惑から私たちを守ってくれるのが祈りです。私たちを誘惑へと引きずり込もうとしてサタンがつけ狙うのは、第一に欲望です。荒れ野の誘惑の記事は、石をパンに変えてみろ、この屋根から飛び降りて見よ、この私にひれ伏せばこの世のすべてを与えようというサタンの誘惑がありました。肉体的欲望、人にほめられたい欲、支配欲、これらの欲望にサタンは入ってきます。第二は感情です。「悲しみの果てに眠り込んだ」とあるように、サタンは私たちの悲しみ・憎しみ・怒り、そして、喜びにすら入ってきます。私達の感情に入り、私たちを神から引き離そうとします。第三は人間の思い・願いです。「私の願いではなく、御心のままに」と言うことがあるように、私達の思い、人間的な思いや願いをもサタンは狙って来ます。ここで主は十字架を避けたいという願いを祈られました。自分の思いを神に優先させたいと言う思いが主にさえあったのです。そのような誘惑から私達を守り、神に引き戻すのが祈りです。私達は祈りによって神に立ち帰ります。祈りによって神に結び着き、御心を知り、そして、サタンの誘惑を退ける力を与えてくれます。「誘惑に陥らないように祈りなさい」という主の言葉を心に留めましょう。

◎第三のことは、祈るとは何を祈るのかということです。22:42で主は「父よ、御心ならこの杯を取りのけてください」と祈っておられます。これは実に正直な祈りです。父なる神の前には何でも祈れることを教えられます。しかし、主はそれに続いて「しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください」と祈っておられます。ここに祈りの本質が示されています。つまり、祈りとは、自分の思いではなく、神の御心を第一とすることなのです。主の祈りでも、神の御名・国・御心を最初に祈ります。これは神社での祈りと異なるところです。祈りとは神の御心を第一とすることである。だから、祈りとは闘い・格闘でもあります。主も血の汗を流して苦しみながら祈られました。神の御心を第一とするのは簡単ではありません。実に苦しい闘いです。しかし、そのような主を天使が力づけたと書かれています。神様が助けてくださるのです。神の助けによって御心を祈れるのです。

◎このようにゲッセマネの祈りは祈りについて深く教えてくれます。しかし、この記事の中から私達が知らされるのはもっと大切なことです。それは主がお架かりになった十字架の意味、そして死から蘇られた復活の意味です。主は十字架を前にして苦しみもだえ、血の汗を流しておられる。それはなぜか。ただ、ご自分の死を恐れ苦しんでおられるか。そうではありません。主が担おうとしておられるのは人類・私達の罪です。その罪はいかに重いか。一人の罪は重いものです。人類の罪は担うということは耐えがたい重さです。そこには神の激しい怒りと厳しい罰が下される。だからこそ主は苦しまれた。私達の罪を担うために主は血の汗を流されたのです。そこではもう十字架は始まっていたのです。私達は主の苦しみの中に私達の罪の深さと主の愛の深さを知ります。それだけではありません。主は「祈り終わって立ち上がった」とあります。「立ち上がる」とは「復活する」とも訳せます。主は十字架後に復活されることを示唆しています。十字架と復活はこの祈りの中で始まっているのです。