2017年2月5日 主日礼拝・説教要約
説教『罪人となれられた主イエス』(マルコ1:1~11)
◎2月最初の主の日を迎えました。昨日が立春で暦の上では春になりましたが、まだ寒い日が続くと思いますので、お身体に気をつけてお過ごしください。先週、ルカによる福音書を読み終えて、次にどこを取り上げるか悩みましたが、やはりイエス様のことをお伝えしたいと思い、マルコによる福音書を取り上げることにしました。明治から大正に活躍した伝道者・植村正久牧師は「説教とは主イエスのことを紹介することだ」と語ったそうですが、今日からマルコ福音書を通してイエス様のことを活き活きと、また、深い所から紹介して参りたいと思います。
◎今日その第1回として取り上げるのはマルコ1:1~11です。今日は3つの部分に分け、それぞれからメッセージを聞いて参ります。まず第一の部分1:1には「神の子イエス・キリストの福音の初め」とあります。「福音」とは「良き知らせ・喜びのニュース」という意味です。何が喜びのニュースか。それは「イエス様がキリストである、それが明らかになった」ことです。キリストとはヘブライ語でメシア、「油注がれた者」「救い主」を意味します。つまり、「イエス様が救い主であること、それが明らかになったこと」が「福音」なのです。しかも、「神の子」とあるようにイエス様は単なる救い主ではない、神の子だといいます。十字架上で息を引き取られたイエスに対しローマの百人隊長が「この方は本当に神の子だった」と言ったマルコ15:39の信仰告白と重なります。最後の「初め」は、次の「洗礼者ヨハネ」の箇所を指すとも考えられますが、むしろ「福音の始まり」という書き出し、旧約の冒頭「初めに神は天地を創られた」を意識した、まったく新しい時代の「初め」を宣言した言葉として理解できます。この1:1には、そのような主イエスに対する確たる信仰が告白されているのです。
◎続く第二の部分1:2~8は「洗礼者ヨハネの登場」の記事です。冒頭の1:2~3はイザヤの書の預言とありますが、1:2はマラキ書3:1の言葉で、この世の終わりの日に裁き主が到来するが、その前に先駆者が来て裁き主の到来の準備をすることが預言されています。また、1:3はイザヤ書40章の言葉でバビロン捕囚の解放から故郷ユダヤに帰っていく途中の荒野において道を備えよと預言されています。これはルカ福音書1章の洗礼者ヨハネに告げられる父ザカリヤの預言の言葉とも重なり、救い主の先駆者としてのヨハネ到来の預言の言葉と言えます。
◎そのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を宣べ伝えたのでした。「荒野」は過酷な所ですが、神と出会う所でもあります。そのヨハネが「悔い改めの洗礼」を宣べ伝えたといいます。「悔い改め」とは、罪の中に生きていたこれまでの生き方、神に背き、自分のために生きた生き方から、神に向き合い、神のために生きる生き方への方向転換を意味します。そのしるしが洗礼・バプテスマです。バプテスマとは「水に浸すこと・入ること」を意味し、「古き自分に死に、新しい自分に生まれ変わること」を意味します。このヨハネの元に、ユダヤ中から人々が集まり、悔い改めの洗礼を受けます。ヨハネは力のある預言者で、多くの人は彼こそ来たるべきメシア・救い主と考えました。しかし、彼は「私よりも優れた方が私の後に来られる。私はその方の履物に紐を解く値打ちもない」といい、自分の後に来る方こそメシアであり、自分はその先駆者であると証言します。ここには、旧約の預言と約束の成就としてメシアが到来することが語られ、メシア到来の先駆者としての洗礼者ヨハネの登場とメシアとしてのイエスの登場は、神の救いの計画の実現、預言の成就だと証言されているのです。
◎ここで注意すべきことは「水による洗礼」と「聖霊による洗礼」の違いです。「水による洗礼」は洗礼者ヨハネの洗礼で、罪の赦しを得るために悔い改めて神に向き合い新たな生き方に方向転換するために行うもの、人間の決断によるものです。それに対し、「聖霊による洗礼」とは、そこに神の霊が働き、神の力・働きかけによって新たな人間に生まれ変わることを意味します。「主イエスの名による洗礼」は「水による洗礼」であり同時に「霊による洗礼」です。主の名による洗礼には神様が私達に働きかけ、新たな人間・神の子にしてくださるのです。
◎最後の第3の部分1:9~11は「イエスの登場」の場面です。そのようにして洗礼者ヨハネの登場の後、主イエスが登場されます。主イエスは辺境の地と呼ばれたガリラヤ地方の貧しい村ナザレの出身です。父の仕事である大工・石切の仕事をして一家を支えていましたが、ヨハネの登場により、時が来たことを知り、救い主としての使命を覚え、世に登場します。その出発において洗礼者ヨハネから洗礼を受けられます。しかし、なぜ、罪なき主イエスが悔い改めの洗礼を受けるのでしょうか。それは私達と同じ罪人になるためです。そして、私達の罪を担い、その罪を赦してもらうためです。もう既にここに十字架への道は始っていたのです。十字架上で私達の罪を担い、その罪を赦す歩みがここから始まったのです。ヨルダン川は世界で最も低い湖・死海に注ぐ最も低い川です。その川で洗礼を受けたというのは、イエス様がこの世の最も低い所、どん底にいる私達の所に来てくださったことを意味します。そのことは神の御心に適うものでした。だから、この時、天から神の霊が降り、「あなたは私の愛する子、私の心に適うもの」という声が聞こえたのです。ここに主イエスの歩みが始まったのでした。