2017年1月29日 主日礼拝・説教要約
説教『救いの証人として生きる』(ルカ24:44~53)
◎1月最後の主の日を迎えました。先週は寒さもやわらぎ、過ごしやすい1週間でした。今週、1月が終わり2月に入ります。2月4日は立春です。春はあと少しです。今日も御言葉を通して命と力、愛と恵みを受けて参りましょう。今日の箇所は、ルカ24:44~53です。ルカ福音書の最後の箇所です。ルカを礼拝説教で最初に取り上げたのが2011年11月27日ですから、それから5年2カ月をかけてルカ福音書を学び続けたことになります。今日ルカ最後の記事を取り上げることで万感迫るものがありますが、ここからメッセージを聞いて参りましょう。
◎前回は、復活の主が弟子達の前に現れ、ご自分の手足を見せ、焼魚を食べて、ご自分が復活したことを懸命に伝えようとされた場面を見ました。そこには弟子達に対する主の深き愛と神のユーモアを見ることができました。今日の箇所は、その続きです。今日は、今日の箇所を3つの場面に分けて、どんなことが起こったのかを見ていきましょう。まず第1の場面、24:44~47です。冒頭の24:44にはこうあります。「主は言われた。『わたしについてモーセの律法、預言者の書、詩編に書いてあることは必ずすべて実現する。これこそまだあなたがたと一緒にいた頃、言っておいていたことである』」と。主は、旧約聖書に書かれていることは私について書かれており、それは皆必ず実現すると言われます。主は何ととてつもなく大きなことをおっしゃっているのかと思いますが、どうでしょうか。このことは前々回の「エマオへの道」の場面でも主は同じことをおっしゃっています。続く24:45では「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する」と言われ、24:47では「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」、つまり、悔い改めることによって得られる罪の赦しがイエス・キリストという名によって全世界に宣べ伝えられるというのです。本当でしょうか。
◎そのことについて詳しく述べることはできませんが、そのことについて旧約聖書において該当すると思われる箇所を2か所、紹介すると、一つはイザヤ書53章の預言「彼の受けた傷によって私達は癒された」という苦しむメシア・救い主の預言があり、もう一つは創世記12章の「地上の民はすべてあなたによって祝福に入る」というアブラハムに対する神の約束の言葉があります。その約束と預言は主イエスにおいて実現したとみることができます。そのように旧約聖書において預言・約束された救い、祝福は私によって実現したとおっしゃるのです。
◎さらに24:45には「イエスは聖書を悟らせるために彼らの心を開いて言われた」とあります。主は御自分が聖書に書かれている救い主であることを弟子達に悟らせるために心を開いて話されたのです。悟るとは心から納得し信じることです。そのために主は弟子達の心を開かれ、悟らせたのです。今日、私達の心を開き、悟らせるのは聖霊です。主イエスの霊である聖霊が私達の心を開き、主を悟らせ、主を信じる信仰を与えてくださるのです。
◎続く第二の場面は24:47後半~49です。ここにはまず「エルサレムから始めてあなた方はその証人となる」とあります。主は、弟子達が主が救い主だと悟った後、全世界に向かってそのことを証人として伝えに行くことを命じておられます。「証人となる」と表現しているのはルカ福音書だけです。主の歩みを歴史的事実として書いてきた歴史家としてのルカの特徴が現れています。しかも、ルカは十字架と復活の出来事によって主の救いが実現したエルサレムを原点・出発点として世界宣教を命じています。ルカ福音書の続編「使徒言行録」では福音はエルサレムから始まって全世界に向かって宣べ伝えられます。ルカは福音の証人となることを命じているのです。
◎しかし、証人となれば迫害され、試練・困難が押し寄せてきます。では、どのような力によって福音の証人となるのか。それは聖霊です。主は言われます、「父が約束されたものをあなた方に送る」と。父なる神が与えると約束された聖霊によって初めて証人となるのです。何という主の配慮でしょう。しかし、その聖霊が降されるまでには時がある。だから、主は「それまで都エルサレムに留まるのだ」と命じます。神の時があるのです。
◎最後の第3の場面は24:50~53です。ここは主が天に帰って行かれる場面です。主は弟子達をベタニアの辺りに連れて行きます。ベタニアは主が最後の1週間をエルサレムで過ごされた時、そこから通われた懐かしい所です。主は思い出のベタニアで地上に別れを告げ、天に上げられます。その際、主は両手を挙げて弟子達を祝福されます。祝福とは「良く言う」という意味です。神の良き言葉・美しい言葉・愛の言葉によって私達は慰められ、励まされ、勇気と希望を与えられます。「天に上げられた・昇天された」とは、「父なる神の御許に帰られた」ことを意味します。私達の真の故郷は天の神の御許にある。私達にとっても帰るべき所は天の父なる神の御許であることを教えられます。それはまた「主が再び来たりたもう」ことも教えています。それまでは「中間の時・宣教の時・教会の時」として主のことを全世界に宣べ伝えねばなりません。弟子達は主を見送った後、主を伏し拝み、大喜びでエルサレムに帰り、神殿の境内で神をほめ讃えていたと言います。ここに教会の姿があります。教会とは、主が来られる時まで主の救いを心から喜び、主のことを宣べ伝えつつ神を讃美する神の民なのです。