説教『御子イエスの命に救われて』(ヨハネ12:12~26)

2017年4月9日     受難週・棕梠の主日礼拝・説教要約
   説教『御子イエスの命に救われて』(ヨハネ12:12~26)

◎今日は受難節第6主日。今日から受難週に入ります。今日は棕櫚の主日です。棕櫚とはヤシの木のこと。主が入城された時に群衆がヤシの木の葉で歓呼して迎えた出来事を記念する主日です。今日は棕櫚の主日を記念して、イエス様が歩まれた受難の意味、十字架の意味について聖書の御言葉を通して学び、心に刻みたいと思います。

◎今日は二カ所から聖句を選びました。関連する聖句を二つ並べることで聖書・聖句の理解は深まります。そこで今日はヨハネ福音書12章とローマの手紙5章の御言葉を取り上げて十字架の意味を学んでいきたいと思います。

◎最初にヨハネ福音書12:12~26を見ていきます。ここには2つの場面が描かれています。最初の場面はイエス様がエルサレムに入城される場面です。この時、過越の祭りを祝うために都エルサレムには国内外から大勢のユダヤ人が来ていました。12:12の「その翌日」とは、12:1にあるように、主がエルサレムの近郊の村ベタニヤに入られた「過越祭の6日前」の翌日のことです。今の日曜日です。その日に大勢の群衆は、イエス様がエルサレムに来られると聞いて、なつめやしの枝をもって迎えたと言います。「ホサナ(救いたまえ)、主の名によって来られる方に祝福あれ」と群衆は歓呼して主を迎えます。それは、主が神と神の国についてすばらしい教えをなさり、また病気で苦しむ人たちを癒すなど多くの奇跡を行って来たからです。特にヨハネ福音書11章に記されている病死したラザロを復活させた見聞きした人々は、イエス様こそ来たるべき救い主,地上の王,ユダヤをローマ帝国の支配から解放し独立させてくれる力強い王・政治的指導者・解放者だと大きな期待を寄せたのでした。

◎ところが、イエス様はろばの子に乗って入城されます。王と言えば立派な馬に乗って堂々と入城するはずですが、主は貧弱な子ろばに乗ってこられたのです。何かこっけいな姿に見えますが、それには理由がありました。12:14~15には「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王が子ろばに乗って」と、ゼカリヤ書9:9が引用されています。ゼカリヤ9:9~10に書かれているのは、戦いを終わらせる王、子ろばに乗った柔和な王、全世界に平和をもたらす平和の王です。つまり、イエス様は、戦いに勝利する英雄的な地上の王ではなく、世界に平和をもたらす柔和と平和の王であることを示しておられるのです。この時、弟子達はその意味が分かりませんでしたが、この後、イエス様が十字架に架かり、復活された後、分かりました。主イエスは謙った柔和な平和の王なのです。

◎このことは次のヨハネ12:20~26においてより明確に示されます。ここには過越祭のためにエルサレムに来ていたギリシャ人達に向かって語られた主の言葉が記されています。このギリシャ人達はユダヤ教の教えの高さに魅了されてユダヤ教に改宗していたものと思われます。主は彼らにこう言われました。「一粒の麦は地において死なければ一粒のままである。しかし、死ねば多くの実を結ぶ」と。麦が畑にまかれ、土の中に入ることを「死ぬ」と言い、死んでこそ麦は成長し実を結ぶと言います。これは主の十字架上での死を表していると言えます。

主の十字架上の死によって世界のすべての人の罪が赦され、一人一人が実を結ぶ人になっていくことを表しています。この言葉はキング牧師などを思い起こさせますが、何より主ご自身の生と死を告げている言葉と言えます。

 

◎そのことは次の12:25がさらに明確にしています。「自分の命を愛する者は、それを失い、自分の命を憎む者はそれを保って永遠の命を得る」。自分の命は自分のためではなく、神と隣人のために用いる時にこそ本当の命、永遠の命を得ることを告げています。この言葉は「父よ、この杯を取りのけてください。しかし、神の御心がなりますように」と祈られたゲッセマネの祈りを思い起こさせます。自分の命を神と人のために犠牲にすることは苦しい。しかし、自らを犠牲にして神の使命を果たし、人々に永遠の命をもたらすことができる。この言葉にも主イエスの決意と覚悟が込められています。主はそのような思いで十字架へ向かわれたことを私達は知るのです。

◎では、一粒の麦となられた主の死はどのような実を結ぶのでしょうか。その十字架の意味を深く書き記したのが伝道者パウロです。彼が書いたローマの手紙にはそれが書かれています。今日取り上げるのはローマ5:6~11です。5:6~8には、まず、「私達が弱かった頃」、つまり、神から離れ、神の背く罪人、神の敵であった頃、不信心な時に、キリストが私達のために死んでくださったと書かれています。善人のために死ぬ人はいるでしょうが、罪人のために死ぬ人はいるでしょうか、とパウロは書き、罪人の私のために主が死んでくださったのは、神の愛を示すためであったと書きます。つまり、十字架の死は神の愛を示した出来事なのだと彼は言うのです。

◎そして、続く5:9で「私達はキリストの血によって義とされた」と書き、今現在「神の怒り」から救われ、将来の神の怒りの裁きから免れていると書きます。さらに、5:10で「御子の死によって神と和解し」、「御子の命によって救われた」と書きます。十字架、つまり、主の死は、私達に義と神との和解、神の怒りからの解放、罪からの解放と救いをもたらしたのです。さらに5:11にあるように、私達は「神を誇りとする」者、神を喜ぶ者とされた。私達は神を恐れる者から神を喜びとする者に変えられたのです。これこそ十字架の恩恵と言えます。