説教『主によって開かれた耳・口・心』(マルコ7:24~30)

2017年12月3日          アドベント・主日礼拝・説教要約
説教『主によって開かれた耳・口・心』(マルコ7:24~30)

◎今日は12月の最初の主日。今日から待降節・アドベントに入りました。アドベントとは「来る」という意味ですが、ここには2つの意味が込められています。一つは、救い主として来られた主イエスを私達の心に迎えるという意味、もう一つは、やがて世の救いの完成のために再び来られる主、再臨の主を待ち望むという意味です。その二つの意味を噛みしめながら悔い改めの心を持って待降節を過ごしたいと思います。

◎そのアドベント礼拝の1回目の礼拝ですが、今日の聖書、マルコ7:24~30はそれにふさわしい箇所です。耳と口が不自由な人が耳と口の自由を回復する奇跡物語です。この話を通して主イエスとはいかなる方であったのか、また、どのようなメッセージがここに込められているのかを一緒に見ていきたいと思います。

◎冒頭の7:31には「イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜けガリラヤ湖にやってきた」とあります。前回の記事の舞台となったティルスはフェニキア地方の地中海沿岸の港町です。
その北のシドンを経て、ガリラヤ湖の南東にあるデカポリスを経てガリラヤ湖東岸に至ったと言います。随分遠回りをしているようですが、要するに今日の記事の舞台は異邦人の地であることを伝えています。

◎この地にもイエス様の名声は聞こえていて、主が来られたと聞きつけ、ある人々が、耳が聞こえず舌が回らない人を連れて来てイエス様に対して手を置いてください、癒してくださいとお願いしたと言います。この耳が聞こえず、言葉が話せない人は、幼い頃から苦しんで来たと思います。ほかの人が何を言ってい
るのか分からない、また、自分の思いを伝えられない。もどかしさとくやしさ、苦しみと悲しみをずっと味わってきたと思います。その両親や家族も同じです。その本人と家族の苦しみを知っている人々が何とかこの人を助けたいと思ってイエス様のところに連れてきた。私はこの人々の憐れみに心を打たれます。

◎するとイエス様は耳と口が不自由な人の苦しみ・悲しみ・悩みを理解し受け入れて下さり、その人を癒す決意をされます。主はその人を群衆の中から連れ出し、二人きりになってその人に向き合います。主は、人々の前で見世物のように奇跡を行う方ではありません。常に1対1でその人に向き合い、持てる命と力、愛を注ぎます。その時、主はその指をその人の両耳に差し入れ、また、唾をつけてその舌に触れられます。

主は御自分の手で直接、その耳と下に触れ、その愛と命、力を注ぎます。そして、天を仰ぎ、深く息をつき、その人に向かって「エファタ(開け)!」と命じます。「天を仰ぐ」とは天の父なる神に癒しの力を求めたことを表します。「深く息をつき」とは深く呻いて祈ることを表しています。主はこの人の苦しみを自分の苦しみと受け止め、自ら苦しみ呻き、その苦しみを自らで担おうとして祈られたのです。そして、「エファタ(開け)」と命じ、その耳を開かれます。「神は『光あれ』と言われた。すると、光があった」という天地創造物語を思わせる主の権威と力を感じさせます。そのようにしてその人は癒されたのでした。

◎ここにはイエス様がどのような方であったのかが良く示されています。それはまず、イエス様が私たちの苦しみ・悲しみ・辛さ・悩みをご自分のこととして受け止め、苦しみ悩み、1対1で私たちに向き合い、深い愛と憐れみを注ぎ、私たちのために呻きくように父なる神に祈り、ご自分の肩に担ってくださる方であるということです。そして、そればかりか、天を仰いで父なる神の愛と命、力を受けて、私たちに触れ、「エファタ(開け)」と命じて私たちの耳と心を開き、神の真の言葉を聴けるようにし、また、舌のもつれを解き、神の真の言葉を語れるようにしてくださるのです。つまり、主は私たちの苦しみ・悩みに応え、その苦しみ悩みから解放し、救い出し、解決の道を与えてくださる真の救い主なのです。それまで不可能と思われた問題を解決し、闇の中に光をもたらして下さり、生きる命と希望を与えてくださる方なのです。

これは、アドベントで読まれるルカ福音書1:78~79にある洗礼者ヨハネの父ザカリヤの預言、「曙の光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座する者達を照らし、我らの道を平和に導く」を実現された姿と言えます。

◎私はこの奇跡物語を読みながら、日本聾話学校のことを考えていました。1920年の創立以来、耳の不自由な子どもたちへの聴覚教育を担ってきた学校です。聾話学校では補聴器をつけて残された聴覚を育てます。耳にした声や音、言葉が人間を育てるという真実と信念の元、聴く力を育て、真の人間として育てる人間教育を実践して来られました。そこで校長として長年、聴覚教育を指導して来られたのが大島功先生です。人の声が伝わることによって人間の情感と心が豊かに育ち、言葉を話すようになる。そう考えると、今日のイエス様がなされた耳の不自由な人の耳を開いたという奇跡物語は、聾話教育の門を開いた物語だと言えます。大島先生は「聴覚教育の限界は空だ、空の極みまで」と語り、その限界を突破して来られました。そのチャレンジ精神を与えたのが、主の愛の奇跡物語です。主の愛が困難を克服し奇跡を起こしたのです。