説教『くいさがる信仰』(マルコ7:24~30) 

2017年11月26日               主日礼拝・説教要約
説教『くいさがる信仰』(マルコ7:24~30)

◎11月最後の主の日を迎えました。穏やか初冬の朝となりました。先週は「つながり感謝する会」が持たれましたが、改めて鶴川北教会が家庭集会の頃から子ども達を大切にしてきたことが分かりました。これからも子ども達を大切にし、これまで育っていった子ども達のことを祈り続ける教会でありたいと思います。

◎今日も聖書のみ言葉から神の愛と命を受けて参ります。前回はマルコ7:1~23を取り上げ、人を汚すのは外にではなく心の内にあること、その罪と悪から人を救うために主が十字架に架かったことを心に留めました。今日は続く7:24~30を取り上げます。さきほど読んでいただきましたが、どう思われたでしょうか。イエス様にしてはやや差別的ではないか、なぜ、この女性の娘をすぐに救うべきではなかったかと思った方もおられるでしょう。しかし、この箇所を深く読んで行くと実に愛と恵みに溢れた箇所だと分かります。

◎まず、7:24によると、主はティルス地方に行かれとあります。ティルスは地中海に面した外国の地フェニキアの港町です。なぜ、主はそこに行かれたのか。それは休養と祈りを必要としたからではないでしょうか。伝道と論争に明け暮れていた生活から一歩、身を引いて休養し祈りに専念する時間が必要であった。
それは十字架の道が見えてきたからです。この後、8章で十字架へと向かう決意をされますが、そのための祈りが必要であったと思われます。ところが、主が来ておられることが分かります。そこへ一人の女性が来て主の御前にひれ伏し、悪霊に憑かれて苦しむ娘を助けてくださいと必死に主に懇願するのでした。

◎このシリヤ・フェニキア生まれのギリシャ人の女性に対して主はこう言われます。「まず、子どもたちに十分食べさせなければならない。子どもたちのパンを取って子犬に与えるのはよくない」と。ここにいう「子ども達」とはユダヤ人を、「子犬」とは外国人を指すと考えられます。主は「ユダヤ人にまず救いをもたらすべきであり、ユダヤ人に与えるべき救いを外国人に与えるのは良くない」というのです。これはどう理解したらいいのでしょうか。その答えを解くカギは「まず」という言葉でしょう。つまり、救いはまずユダヤ人に与えるべきだという救いの順序、神の救いのご計画があることを語っておられると言えます。確かに旧約聖書には、アブラハムに対してあなたを祝福の基とするという約束が与えられ、その子孫からイスラエルの民が出たことを考えれば、神の救いはイスラエルから始まると言えます。ただし、その選びはイスラエルが優秀だったからではなく、貧弱であったから、弱く小さくされた民であったからであることを忘れたはなりません。神様は何より弱く小さな存在を憐れみ、最初に救われる方であるのです。
ですから「子犬」という言葉も蔑視した意味ではなく、愛すべき子犬・人々という意味で使われたのです。

◎この主の言葉に対してこの女性は答えます。「しかし、主よ、食卓の下の子犬も子どものパンくずはいただきます」と。「しかし、主よ」は、口語訳聖書では「主よ、お言葉通りです。でも」となっています。女性は「神の約束通りユダヤ人から救いが始まることが存じています」と、まず主の言葉を受け入れます。
その上で「私達・外国人もそこから溢れ出る恵み・救いをいただきたいのです。それを与えてください」と懇願します。ここには、この女性の、謙虚で、また主への信頼に満ちた信仰、強く、たくましい信仰を見ることが出来ますし、主の言葉を実に見事に切り返す機知・ウイット・ユーモアを見ることが出来ます。

◎この女性の言葉に対して、主はこう答えます。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出て行ってしまった」と。すると、悪霊は娘から出ていき、娘は癒されたのでした。主はこの女性の信仰、強い信頼に裏付けられた信仰を認め、その娘を癒されたのでした。面白いのは主の答えです。「それほど言うなら」は、岩波書店から出ている岩波訳聖書では「そう言われたらかなわない」と訳されています。つまり「一本やられた!私の負けだ!」と自分の負けを認めておられるのです。ここには、主がいかに豊かな愛とユーモアに溢れた方であるかが表されています。実に恵み豊かな記事です。

◎ここにはどのようなメッセージが込められているのでしょうか。それは、第一に、神様の救いには順序・神様の御計画があるということです。旧約における神の約束は忘れられてはいません。神様は約束通り、ユダヤ人から救い出し、その後、すべての民を救う御計画を持っておられたことを忘れてはなりません。
第二に、この女性の謙虚でありながら、あきらめない、食い下がる、実にたくましい信仰です。その強い信仰の裏には主への強い信頼、主の愛の深さ・大きさ・豊かさへの信頼がありました。私達もそのくいさがる信仰を学びたいと思います。第三に、主の愛の深さ・大きさ・豊かさです。女の切り返しにユーモアをもって負けてくださった主。主はこの女性の信仰を試したのかも知れません。改めて、主の愛の深さ・広さ・豊かさが伝わってきます。この主の愛が私達にも常に豊かに注がれている