12月に入り、北国からは降雪の報が伝えられている。いよいよ厳しい冬の到来である。この国の童話の草分けとも評される新美南吉の代表作に、『手袋を買いに』という作品がある。町中に出没する野生動物の脅威が報道されている昨今、考えさせられる物語である。
冬を迎えた雪山の洞に住む狐の母子、雪の冷たさに手がしもやけになるのを気の毒がって、母狐は坊やに手袋を買い与えようとする。しかしかつて人間からひどい目に会った親狐は、人間の店に子ども自身ひとりで買いにやらせる。「『坊やお手々を片方お出し』とお母さん狐がいいました。その手を、母さん狐はしばらく握っている間に、可愛いい人間の子供の手にしてしまいました。『いいかい坊や、町へ行ったらね、たくさん人間の家があるからね、まず表に円いシャッポの看板のかかっている家を探すんだよ。トントンと戸を叩たたいて、今晩はって言うんだよ。そうするとね、中から人間が、すこうし戸をあけるからね、その戸の隙間から、こっちの手、ほらこの人間の手をさし入れてね、この手にちょうどいい手袋頂戴って言うんだよ、わかったね、決して、こっちのお手々を出しちゃ駄目よ』」と母さん狐は言いきかせました。『どうして?』と坊やの狐はききかえしました。『人間はね、相手が狐だと解ると、手袋を売ってくれないんだよ、それどころか、掴まえて檻の中へ入れちゃうんだよ、人間ってほんとに恐いものなんだよ』」。
正体を知られないよう母親から人間の手にしてもらった子ギツネだが、店内の明かりがまぶしくて、間違えてほんとうの自分の手を出してしまう。おやおや。お店のひとはキツネだと気づきながらも、持っていた銅貨が本物だと知れると、子ども用の毛糸の手袋を渡してくれた。暖かな手袋を手にした子ぎつねは、誰かの母親が歌うやさしい子守唄を聞きながら、森の洞穴に帰りついて母に報告する。「『母ちゃん、人間ってちっとも恐かないや』
『どうして?』『坊、間違えてほんとうのお手々出しちゃったの。でも帽子屋さん、掴まえやしなかったもの。ちゃんとこんないい暖い手袋くれたもの』と言って手袋のはまった両手をパンパンやって見せました。お母さん狐は、『まあ!』とあきれましたが、「ほんとうに人間はいいものかしら。ほんとうに人間はいいものかしら」とつぶやきました」。
「ほんとうに人間はいいものかしら」と繰り返す母狐の言葉を、今、私たちはどう聞くのか。狐と分かれば「掴まえて檻の中へ入れちゃう」人間というものがいる。他方、狐と正体が分かっていても、(お金が本物なら)手袋を売ってくれる店の主人のような人、山の狐の親子のことを思いながら、子どもに子守唄を歌って寝かしつける母親がある、「人間はほんとうにいいもの」、「童話」という形態を取ってはいるが、ここには根源的な人間についての問いがある。「性善説ではやっていけない」という声ばかり高まっている昨今、そしてこの年末なのであるが。
今日の礼拝ではエレミヤ書を取り上げる。現在、私たちが目で見て読むことの出来る聖書のみ言葉が、どのように文字という形になり、現在にまで伝えられてきたのか、その背後にどのようなドラマがあるのか、を知ることができる貴重なテキストである。とりわけ預言者は、神の啓示を受けて、霊に満たされて神の言葉を自由に語る人たち、それは「酒に酔った人のよう」とも評される、だったから、普通なら、預言というものは、語られたその時限りで消えてしまうはずの目には見えないものである。それが時代を超えて受け継がれたのは、どういう事情なのか。
2節「巻物を取り、わたしがヨシヤの時代から今日に至るまで、イスラエルとユダ、および諸国について、あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい」と神は預言者に命じる。言葉を文字に書き記すことは、神からの命令なのである。それで4節「エレミヤはネリヤの子バルクを呼び寄せた。バルクはエレミヤの口述に従って、主が語られた言葉をすべて巻物に書き記した」。長い間、文字を書く、記録を取って保存する、という作業は、普通の人々の生業ではなく、特別の技能を習得した専門家の仕事であった。彼らの多くは宮廷や神殿に奉職し、さまざまな公文書の記録、保存という作業に従事した。他方、民間では、代書屋のような仕事にも手を染め、字の書けない人々の代わりに、手紙や文書を記したのである。当時の古文書は、時代の慣例に則って行数、文字数が整った書式で記されている。コンピュータのワード文書のような体裁である。
預言者の言葉もそのように専属の書記が居て、彼らが預言の言葉を記し、保存したのである。エレミヤにはバルクという右腕がいたようである。5節以下にこう記されている「エレミヤはバルクに命じた。『わたしは主の神殿に入ることを禁じられている。お前は断食の日に行って、わたしが口述したとおりに書き記したこの巻物から主の言葉を読み、神殿に集まった人々に聞かせなさい。また、ユダの町々から上って来るすべての人々にも読み聞かせなさい』」。エレミヤは、神殿当局から、いわゆる「出禁」にされているのである。
ひどいクレーマーや迷惑をかけるお客が、店から「出禁」にされる、という話を時に耳にすることがある。主イエスもおそらくは神殿を「出禁」にされたと思われる。何せ、あれほど派手に、神殿の前庭で、立ち振る舞いをしたのだから。おそらくそれが十字架を決定づけた。しかし、そもそも神殿は、「すべての人(ユダヤ人も異邦人も)の祈りの家」のはずである。それがどうしてこの預言者は拒絶されたのか。エレミヤ活動の時代、ユダの国は隣国バビロニアからの圧迫や脅威を受けていた。エレミヤは平和のために自らの命の危険を冒してまで王に進言した。預言者は戦争が起こることを案じて、そうなれば祖国の滅亡は免れないことを危惧していた。しかし、人々は楽観的で、「我々には主の神殿があるから、そんな不幸は起こるはずがない、いざとなったら神風が吹く」と誰もが安穏としていた。だから国に対して都合の悪いことばかりを語り、縁起の悪いことばかりを語る預言者は、当然、排斥されることとなる。仮にもエレミヤは、預言者である。口から出された言葉が、現実になってはかなわない、という訳である。8節「そこで、ネリヤの子バルクは、預言者エレミヤが命じたとおり、巻物に記された主の言葉を主の神殿で読んだ」。
このバルクが記した預言者の言葉は、宮廷の役人たちに衝撃を与え、巻物にされて王の下にも届けられた。王は役人に命じて、その言葉を読み上げさせたという。それを聞いたヨヤキム王の反応はどうだったか。22節「王は宮殿の冬の家にいた。時は九月で暖炉の火は王の前で赤々と燃えていた。ユディ(秘書官)が三、四欄読み終わるごとに、王は巻物をナイフで切り裂いて暖炉の火にくべ、ついに、巻物をすべて燃やしてしまった」。文字となった神の言葉を細かく切り裂いて(シュレッダーにかけるように、そうすればもう読むことは出来ない!)、火に燃やしてしまったという。今も昔も、人間の発想は同じである。「書類など存在しない」、つまり証拠(エビデンス)がなければ、どうにでもなる。
24節「このすべての言葉を聞きながら、王もその側近もだれひとり恐れを抱かず、衣服を裂こうともしなかった。また、エルナタン、デラヤ、ゲマルヤの三人が巻物を燃やさないように懇願したが、王はこれに耳を貸さなかった」。神の言葉を細かく切り裂いて、火にくべる人々がいる。同じ言葉を怖れとおののきをもって受け止め、悔い改める人々がいる。
こういう言葉がある、「この世にはふたつの人間の種族がいる、いや、ふたつの種族しかいない、まともな人間とまともではない人間のふたつ。このふたつの『種族』はどこにでもいる。どんな集団にも入りこみ、紛れこんでいる。まともな人間だけの集団も、まともではない人間だけの集団もない。したがって、どんな集団も『純潔』ではない。」これはフランクルは著書『夜と霧』の掉尾に語られる言葉である。そして「最も良き人々は
帰ってこなかった」と彼は述懐する。収容所の中で、大半の被収容者は、人間らしい生活を奪われ、人間性を忘れ、感情を消滅させてしまう。それでも、通りすがりに思いやりのある言葉をかける者、なけなしのパンを譲る者がいた。それは収容所の監視者も同じで、その大半は残虐行為に埋没するが、その中には、ポケットマネーからかなりの大金を出して被収容者の為に薬品を買う監督者や、自分の朝食から抜き、取っておいた小さなパンを囚人に差し出し、いたわりの言葉とまなざしと共にそっと渡す監督者もあった。「どんな集団も『純潔』ではない」という洞察は、この世には救われる者と救われない者の二種類がある、という分断の言葉として読んではならないだろう。「純潔」でないこの世に、どのように対することができるのか。そもそも神はどのように出会われるのか。
神の言葉を燃やした王の所業に対して、神はエレミヤに告げられる。22節「改めて、別の巻物を取れ。ユダの王ヨヤキムが燃やした初めの巻物に記されていたすべての言葉を、元どおりに書き記せ」。新しく言葉を書き記し、み言葉を伝え続けよ、というのである。そしてその度に、預言者の言葉がさらに加えられて、より豊かなものとなって行ったというのである。そしてその豊かさの行きつく先にあるものが、「飼い葉桶」である。紙に書かれた文字としてではなく、神の言葉は肉となって私たちの間に宿った。人知れず、家畜小屋の片隅で起こった小さな出来事は、やがて世界に拡がって行く。世の人は、この肉となった言葉を、ヨヤキム王のように、十字架につけて葬り去ろうとした。しかしそのみ言葉は、永遠の生命となって甦るのである。神は飼い葉桶から出来事を起こされる。それは「純潔」でない世のすべての人に、み言葉にふれることができるようにである。「人々が主に憐れみを乞い、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない」、これは私たちの希望ではない、今なお、ひとり子を世に送られた神ご自身の希望、こころである。そこに私たちの心を通わせ、待降節の歩みを続けるのである。