2017年12月17日 アドベント(3)・主日礼拝・説教要約
説教『見えるようにされた目と心』(マルコ8:22~26)
◎待降節の第3主日を迎えました。いよいよ来週、クリスマスを迎えます。そういう中、先週、音響システムの工事を終えました。音響も映像も素晴らしいものになりました。労苦された皆様に心より感謝します。
私たちにとっては大きなクリスマスプレゼントとなりましたが、それ以上のプレゼントがイエス様です。今日も、御言葉を通して、私達に贈られたイエス様とはどういう方だったのかを心に刻んで参りましょう。
◎今日の御言葉はマルコ福音書8:22~26です。短い箇所ですが、大変深いメッセージが込められています。どんなメッセージが込められているのか。そのメッセージをお伝えする前に、その内容を見て参ります。
まず冒頭の8:22には「一行はベトサイダについた」とあります。ベトサイダとはガリラヤ湖の北岸にある町ですが、イエス様達がそこに到着されると人々が目の見えない人をイエス様に癒していただこうと思って連れてきたといいます。当時、目の見えない人は差別されていたのに、この人たちは目の見えない人を気の毒に思い、主の元に連れて来たのでした。この人達は何と心優しく愛に溢れた人達かと心打たれます。
◎イエス様は連れて来られた目の見えない人を見て心を痛め、憐れに思うと同時に、その人を連れてきた人々の愛に深さに心打たれ、何とかして助けたいと思われたと思います。すると主はその人の手を取って村の外に連れ出します。主は人々の前で見世物のように奇跡を行うことを避けます。主は、その人と1対1で向き合い、その人に御自分の命と力、愛のすべてを注ごうとされます。その人の目に御自分の唾をつけて、その両手でその人の目に当てます。直接、ご自分の両手でその人の目に触れ、ご自分の愛と命、力を注ぎます。このようなやり方は当時の民間治療の方法であったと言いますが、主は高い所からではなく、民衆と同じ所に立ち同じ方法で癒そうとされます。ここに主の低き心、へりくだりの心を見ることが出来ます。
◎主は両手を置いた後、その人に「何か見えるか」と尋ねます。主は一方的に癒す方ではありません。目の見えない人に目が見えるようになったかを確かめます。相手の立場に立って癒そうとされるのです。すると彼は「人が見えます。木のようですが歩いているのが見えます」と答えると、主はまだ完治していないと判断され、もう一度、その両手をその両眼に当てます。すると、よく見えるようになり、何でもはっきり見えるようになったと言います。そのように主は目の見えない人の目を完全に癒し、完全に見えるようにされたのでした。ただし、このことは主とその人の間で起こったことです。秘密にしておくべきことでした。なぜなら、主は御自分の力を誇示するために用いる方ではなかったからです。主はその人に「この村に入ってはいけない」と言い、その人を家に帰します。その癒しは主の愛と憐れみの行為だったのです。
◎この記事に込められたメッセージは何でしょうか。第一のメッセージは、この目の見えない人の目が見えるようになったという癒しの奇跡はイエス様の深く愛と憐れみの心から起こったということです。イエス様は連れて来られた目の見えない人を深く憐れみました。それは「はらわたがちぎれるほど心が痛む」という憐れみでした。しかも、その目の見えない人を主の元に連れてきた人々の愛の心に心を深く動かされたに違いありません。イエス様は決して人に見せるために奇跡を行うような方ではありません。イエス様がなさる奇跡はすべて愛と憐れみによって起こされます。主の愛と憐れみの心が奇跡を起こしたのです。
◎第二のメッセージは、この目の見えない人の目を癒すという出来事は、私達を様々な偏見と差別から解放する出来事であったということです。それはヨハネ福音書9:1~7を読むと分かります。そこでは目の見えない人を見た弟子達が「先生、この人が生まれつき目が見えないのは本人が罪を犯したからですか、それとも両親が罪を犯したからですか」と尋ねます。罪を犯した結果、目が見えない、病になる、不幸が訪れるといった間違った考え方・偏見があったのです。それに対して主は「本人が罪を犯したからでも,両親が罪を犯したからでもない。神の御業が現れるためである」と答え、因果応報説などの偏見を否定し、むしろ、それは神の御業が現れるためであると、前向き・肯定的・積極的に受け止める考え方を語られたのです。何と素晴らしい言葉でしょう。この言葉に多くの障がい者は救われ、解放され、生きる勇気と希望を与えました。そのように主は私達を間違った考え・偏見から解放し、生きる希望をお与えになるのです。
◎第三のメッセージは、イエス様は肉体の目だけでなく心の目・魂の目を開いてくださる方だということです。それは文脈から分かります。前の記事には「ファリサイ派のパン種、ヘロデのパン種に気をつけろ」という警告が弟子達になされていました。傲慢、偽善、エゴイズム、権力・富・名声・快楽への強欲などの罪によって私達の目は真実が見えなくなっています。弟子達も自分の栄光を求める心によって主を見えなくなっていました。そういう弟子達・私達の心と魂の目を開くために主は十字架に架かられたのです。