2014年7月6日 主日礼拝・説教要約
説教『真理への真実と責任』(ルカ11:45~54)
◎7月最初の主の日を迎えました。梅雨も終盤に入って来ました。この梅雨の雨で畑の野菜が大きく成長しました。改めて自然の恵みに大きさを感じます。先週は、加藤久幸牧師を迎えて鶴川北教会の38回の創立記念日を祝いました。私達の歩みは「たへざる小さな十字架と復活の出来事」の積み重ねであることを教えられましたが、私達もまた様々な課題や困難を乗り越えて、主の栄光を表して参りたいと思います。
◎さて、今日の箇所はルカ福音書11:45~54です。前回は、ファリサイ派に対するイエス様の深い嘆きと批判の言葉から学びましたが、今日の箇所はそれに続いて律法学者に対する嘆きと批判から主のメッセージを聞いていきます。その切っ掛けとなってのは、ファリサイ派に対する主の言葉を聞いた律法学者が「それは私達をも侮辱することだ」と抗議したからです。ファリサイ派が懸命に守ろうとした律法の規定を研究し、定めていたのは律法学者でした。ファリサイ派を批判することは律法学者を批判することになったのです。その抗議に対して主は、正面から律法学者たちの言動を深く嘆き、厳しく批判されました。今日は、その深い3つの嘆きの言葉を取り上げ、そこに込められた主のメッセージを聞いて参りましょう。
◎第1の嘆きは「あなたたち律法学者は、人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとはしない」という嘆きです。この重荷とは、第一に律法の規定を指していると言えます。律法学者は律法の細かい規定を定め、それを守るように教えました。安息日を巡る論争においても、彼らは安息日に主の弟子達が麦の穂を獲ったこと、また、主が病人を癒したことを批判しました。それに対し主は「安息日のために人がいるのではない。人のために安息日があるのだ」と教えましたが、律法学者は律法の規定を振りかざし、人々を規定で縛り上げていたのです。それだけではありません。彼らは、律法の規定を守れない人を裁いては激しく攻撃し、糾弾し、罪人として排除していました。ヨハネ福音書8章にある「姦淫の罪を犯した女性」の話にもあるように、律法を守れない人を憐れみ、助け、教えるどころか、捕えては裁き、糾弾していたのです。主は、その冷酷さと無責任を厳しく批判されたのでした。
◎律法学者はどこに間違いがあったのでしょうか。それは、本来、律法とは、奴隷として重労働に苦しんでいたイスラエルの民をエジプトから脱出させてくださった神の深き愛と憐れみ、恵みと救いに応えるためにシナイ山でモーセに十戒が授与されたように、神の恵みに応えて生きて行く生き方を示すものでした。
ところが、その律法の根拠となっていた神の恵みが忘れ去られ、ただ人々が守るべき義務となり、人を裁く物差しになっていたのです。これは私達も犯してしまう過ちです。恵みとして与えられた信仰が義務や物差しとなって自分や人を苦しめるものになっていないか反省しなければなりません。信仰とは、本来、神の愛の深さ、恵みの豊かさを実感することであり、その神の愛と恵みの中に安らぎ、喜び、それを心から感謝して生きることです。そして、その神の愛と恵みに応える生き方が律法であり倫理なのです。ところが律法学者は、人々に律法を重荷として負わせてばかりいる。そこに主の深い嘆きがあったのです。
◎第二の嘆きは、「あなたたちは神様が遣わした預言者や使徒たちを迫害し、殺してきた先祖と同じだ」という嘆きです。つまり、イスラエルの民が神の言葉・御心・真理に耳を傾けず、むしろ、それに背き、自分達の思いによって生きてきたことを主は嘆き、批判しておられるのです。特に50節は注目すべきです。
ここには「天地創造の時から流されたすべての預言者の血について今の時代の者達の責任が問われることになる」とあります。なぜ、今なのか。それは、過去の罪・過ちを悔い改め、方向転換し、神に立ち帰るのは今しかないからです。これは人類が直面している平和の問題・環境問題にも言えることです。しかし、主が問われているのは神との関係です。今こそ神に立ち帰り、神の御心を行うべき時なのです。しかし、私達はその責任を担えるでしょうか。とても重くて私達には担えません。その人類の責任を担うのは、主イエスしかいません。その人類の罪の責任を主は十字架上で担われました。主はその覚悟をもってそのように語られたのではないでしょうか。この50節は私達に向けられた言葉であると同時に、主ご自身が自らに向けて語られた言葉だと言えます。この言葉の中には主の深き恵み・福音が語られているのです。
◎第3の嘆きは「知識の鍵を取り上げ、自分が入ろうとしないばかりか人をも入らせない」という嘆きです。知識の鍵とは神の国に入る鍵。知識とは神と、神の国についての知識です。神は愛である。神は神に背いた人を赦し、愛してくださった。それが神の国の知識です。知識の鍵とはイエス様ご自身と言えます。そう見ていくと、この主の嘆きの中に福音があり招きがあると言えます。この招きに応えていきましょう。