説教『主イエスの名によって立ち上がれ!』(使徒3:1~11)

2014年6月15日        三位一体主日礼拝・説教要約
説教『主イエスの名によって立ち上がれ!』(使徒3:1~11)

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◎6月第3主日を迎えました。梅雨も中休みとなっています。先週、会津若松市で開催された部落解放・全国活動者会議に出席してきましたが、原発事故で避難しておられる方、農家の方など福島の人達の生の声を聴いてきました。困窮と不安の中にある福島の人達のことを覚えながら、自分にできることは何かを考えていきたいと思いました。さて、前回は聖霊降臨日を記念して礼拝を捧げました。神様・イエス様は、聖霊として私達の内に働いておられることを心に刻みました。今日は三位一体主日です。父なる神、子なる神・イエス・キリスト、聖霊が一つであることを心に留め、心を込めて礼拝を捧げて参りましょう。
◎今日、選んだ聖書の箇所は、使徒言行録3:1~11です。二人の使徒が足の不自由な男と出会い、主イエスの名によって立ち上がったという話を通して、聖霊の力強い導きと働きについて学んでいきたいと思います。まず3:1以下にはその経緯が記されています。使徒ペトロとヨハネが午後3時の夕べの祈りを捧げるために神殿に向かった。すると、その神殿の門のそばに足の不自由な男が運ばれてきて、そこを通る人達に施しを乞うていました。後の記事を読むとこの男は40歳を過ぎていたと書かれていますから、彼は働けないために40年以上にわたって施しを乞いながら生きてきたのでした。そこに、二人の使徒が通りかかったために男は二人に施しを乞います。すると二人は彼をじっと見たとあります。二人は男の心の中にある悲しみと辛さ、神への不満と恨みがあること、また、そこから救出されたいという思いがあるのを見つめました。そして、この男に必要なものは、身体の回復と魂の救済であることを確信したのでした。
◎しかし、なぜ、二人は道端に座り、施しを乞う男を見て立ち止り、彼をじっと見つめたのでしょうか。
多くの人達が通り過ぎる中、何故、二人は男に心を向けたのでしょうか。私は、この場面からルカ福音書10章で学んだ「よきサマリア人」、追いはぎに襲われて傷つき道に倒れている旅人を介抱したサマリア人を思い出しました。二人もかつては通り過ぎていく人でした。しかし、二人は主イエスの十字架の出来事により自分の罪を深く知り、十字架と復活の出来事によって自分の罪を主が担い、赦してくださったことを確信しました。そして、主の導きによって「愛と憐れみの人」に変えられていったのでした。しかも、そこに主イエスの霊・聖霊が働いた。だから、二人は道端に座る男に目を留めることができたのでした。
◎そして、二人は男に向かって「私達を見なさい」と言います。二人は自分達が主イエスに救われたことを伝え、自分達の中に生きておられる主イエスを見てほしかったのでしょう。男は何かもらえると思って二人を見つめます。ペトロは男にこう言います。「私には金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と。そして、右手をとって彼を立ち上がらせようとすると、彼は躍り上がって立ち、歩き出したと言います。自分の足で立ちあがり、歩いたのです。生まれてから40年以上、自分の足で立てなかった人が自分の足で立ちあがり、歩き出したのです。
◎彼は何によって立ち上がったのでしょうか。それは「ナザレの人イエス・キリストの名によって」です。
名前をその人を表します。名前の中にはその人の人格と力が宿っていると考えられていました。ナザレの人・イエス・キリストとは、辺境の地ガリラヤのナザレ出身で十字架に架かり復活した主イエスということです。男は、主の名によって、いや、主イエスによって立ち上がったのでした。ここに主イエスの霊・聖霊が働いたと言えます。主イエスの霊、主ご自身が働きかけられたからこそ男は立ち上がったのでした。
◎この時、男は自分の足で立ち上がり、歩き回ったり踊ったりして神を賛美したと言います。そして、それを見た群衆は、あの男が足の不自由な男だと気が付き、我を忘れる程、驚いたと言います。人々の中には「その時、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。歩けなかった人が鹿のように躍り上がる」というイザヤ書35章の預言の言葉を思い起こしたことでしょう。待望してきた救いが主イエスによって実現し、それが聖霊の働きによって使徒に継承され、ここに実現したことを聖書は告げています。
◎今日、私達は聖書の記事を通して、聖霊の二つの働きを知ることができます。第一は、聖霊がこの世において顧みられることのなく、苦しみや悲しみの中にいる人達に目を向けさせ、その人達に深く関わろうとする心を起してくれるということです。二人の使徒が足の不自由な男に心を向けさせ、深く関わらせたのは主イエスの霊・聖霊であったと言えます。第二は、聖霊は、人を癒す力と働き、人の身体も心も魂も癒す力と働きを持っているということです。聖霊こそ、隣人に仕え、奉仕していく力・原動力なのです。私達もまた私達に注がれている聖霊の導きと働きによって隣人に目を向け、仕えて参りたいと思います。