説教『人の命は世の富に依らず』(ルカ 12:13~21)

2014年8月31日                 主日礼拝・説教要約
説教『人の命は世の富に依らず』(ルカ 12:13~21)

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◎8月最後の主の日を迎えました。8月は、西日本を中心に集中豪雨が多発し、広島では土砂災害によって多数の方が犠牲となりました。被災されて困窮の中にある方々のために祈り続けて参りたいと思います。明日から9月。教会でも大事な集会が予定されていますが、実りあるものとなるよう力を合わせて参りたいと思います。私達はそれらの集会を通して神の豊かな恵みを共にし、主の栄光を表して参りましょう。
◎今日取り上げる御言葉は、ルカ12:13~21です。エルサレムに向かわれる旅の途中でイエス様が教えられた大事な教えが教えられています。それは、私達に与えられている命が世の富・財産以上に貴く大切であることを教えておられる箇所です。今日は与えられた命の意味と貴さを心に刻んで参りたいと思います。
◎今日の教えのきっかけとなったのは、群衆の一人が主に「遺産を分けるように兄弟に言ってください」と願い出たことでした。ユダヤでは長子権が強く、長男は弟達の2倍の遺産を受け継ぐことになっていましたが、弟達には受け継ぐ遺産がない訳ではありません。ところが、この男は兄さんからまったく遺産を分けてもらえない。それでイエス様に分配するように兄に言ってほしいと願い出たのでした。この男の立場に立てば無理なからぬところです。ところが、主は「誰が私を裁判官、調停人にしたのか」とその願いを退けられます。主は世の人に最も大切な教えを教え、最も大切な救いと命を与えるために来られたのですから退けるのは当然です。その上で主は「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」と教えられます。
主はこの男の心の中に「ある貪欲がある」のを感じたのでしょう。「貪欲」とは「もっと多く」という意味の言葉を語源としています。他人よりもっと多く、より良い物が欲しいという欲望、欲深を意味します。
この貪欲が滅びへのわなとなり、他者との関係を悪化させます。自他ともに滅ぼすのが貪欲です。主は、遺産相続の強い思いの中に貪欲を感じ取り、貪欲に注意し、用心しなさいと警告を与えるのです。
◎そして、主は続けて「有り余るほど持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」と教えます。つまり、どんなに多くの財産を持っていたとしても、人の命はそれで保障されないこと、永らえさせることも保つこともできないと教えます。主は命がこの世の富・財産を超えて貴いこと、人間の努力や力、この世の力によってどうすることもできない、実に貴いものであることを教えるのです。
◎しかし、この男にはこの主の教えは理解できません。それで、主は一つのたとえ話をされます。それが12:16~20の話です。ある金持ちの畑が豊作となり、今ある倉を壊して大きな倉を建てて、そこに穀物や財産をみなしまい、自分にこう言い聞かせた、「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができた。一休みして食べたり飲んだりして楽しもう」と。しかし、神はこう言われた。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した者は一体どうなるのか」と。主は、どんなにたくさん財産を蓄えても、人の命は今日、取り上げられるかもしれないもの、つまり、人の命は自分の物ではなく、神から与えられたもの、神から預かったものだと教えるのです。ヨブ記1:21に「わたしは裸で母の胎を出た。裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」とあるように、私達の命は神が与え、預けたものです。いつか神にお返ししなければならないものです。命は私物化できないもの、神のもの、神からの預かりもの、神にお返しすべきものであることを主は教えるのです。私達・現代人は、そのことを忘れています。命を私物化し、死んだらすべて終わりと考え、生きている限り人間の努力で豊かにしようとしている。そうではなく、私達の命は神から与えられたもの、神から預かったものであり、命の授与者、支配者、主権者は神であることを教えるのです。私達は、私達の命が神によって守られ保たれていること、地上の命を終えると永遠の命が約束されていることを再確認するのです。この地上では神から与えられた命を真に生かしていけ、真に命を生かし、真の命を得ることこそ、我らの使命なのです。
◎では、どのようにして真の命を得ることができるのでしょうか。今日の最後の言葉、12:21にはこうあります。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通りだ」と。つまり、自分のために富を積むのではなく、神の前に豊かに生きることこそ,真に命を生かすことだというのです。では、「神の前に豊かに生きる」とはどういうことでしょうか。それは神の恵みを受け、それを喜び、神に感謝しながら生きることと言えます。それは言い換えれば「主イエスと共に生きて行く」ことです。ローマの手紙5:6~11にあるように、主イエスの救いと命を受け、それを喜びとし、感謝して生きることです。人生の晩年、洗礼を受けて初めてわが命の真の喜びと幸いを味わった人がいます。真の命は神の中にあるのです。