説教『すべてを神様に委ねて生きる』(マタイ11:28~30)

2014年9月14日                 敬老の日・礼拝・説教要約
説教『すべてを神様に委ねて生きる』(マタイ11:28~30)

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◎9月も半ばとなり、過ごしやすい日が続いていますが、今朝はすがすがしい朝を迎えています。今日は、明日の敬老の日を前に、敬老の日の礼拝を捧げたいと思います。今日はご高齢の皆様をお迎えして、そのご健康とご平安、ご長寿を共に祈りたいと思います。町田市の最高齢者は110歳になる横田要太郎さんだそうですが、鶴川北教会の最高齢者は塚口美代子姉で現在、99歳8か月となられ、次が竹山晴夫兄で99歳3か月となられます。来年はお二人共100歳を迎えられます。教会でお祝いできればうれしく思います。
◎ 聖書の中に「白髪は輝く冠」という言葉がありますが、長寿は神の栄光を表す冠、神の祝福の現れです。
もちろん、老いは、不自由な体、体の痛み、目・耳・頭脳の衰えなど辛い面もあると思います。しかし、老人は知恵の象徴であり、知恵ある人として尊敬されてきました。老人になって初めて分かること・悟ることがあります。仏教学者の鈴木大拙は「90歳になって初めて分かったことがある」と書いています。では長寿になって悟る真理は何か。今日はその真理の一つについて聖書を通して学んでいきたいと思います。
◎その真理とは何か。それは「人間の命、いや地上のすべての命は、神によって与えられ、生かされている」ということです。さきほど読んでいただいた詩編55編23節に「あなたの重荷を主に委ねよ。主はあなたを支えてくださる」とありました。私達の命は支えられている。生かされている。目に見えない力・神様・仏様によって生かされている。これがキリスト教・仏教に共通する真理だと言っていいでしょう。
自分の力によって生きているのではなく、神様によって生かされている。これが年老いて分かって来る真理ではないでしょうか。詩人・吉野弘さんの詩に「生まれるということ I was born」という詩があります。中学生の時、日本語の「生まれる」が英語になるとなぜ I was born と受動態・受け身形になるのが分からなかった。それが身重の女性とすれ違った時に分かったという詩です。生まれてこようと思って生まれてきた人は誰一人いません。生まれてきたら、ある時、私であることを認識したのです。人間の誕生は受身です。「生きる」ことも「生かされている」と言えないでしょうか。もちろん、人は自分の力で生きる・何かを成し遂げるという面もありますが、生かされている・生かされてきたという側面も持っています。いや、自分の力で生きてきたというよりも、むしろ「生かされてきた」という方が正しいのではないでしょうか。とても乗り切れない試練や苦難をどうして乗り越えられたのか。生かされてきたというほかありません。死もまた受け身です。死ぬ時期は選べません。死ぬこともまた神様にお任せするしかありません。結局、私達の命は神から預かっており、再び返さなければならない。命は預かりものなのです。
◎ヨブ記のヨブは、全財産と子ども達すべてを失った時、神に向かってこう叫びました。「私は裸で母の胎を出た。裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」。聖書が一貫して教えているのは、「主は与え、主は奪う」ということ、つまり、私達は神によって生かされているということです。今日まで生きてこられたのも神の守りと導きがあったからです。神によって生かされてきた。そう思うと何と有難いことと神への感謝に溢れます。神に生かされてきたという発見は感謝に変わります。
◎だから、私達の生き方は、自分の力で頑張って生きるというより、すべてを神様に委ねて生きる生き方となっていきます。詩編55:23にあるように「あなたの重荷を主に委ねよ。主はあなたを支えてくださる」のです。今日の礼拝の冒頭で読まれたイザヤ書46:4にはこうありました。「あなたたちは生まれた時から背負われ、母の胎を出た時から担われてきた。同じように、私はあなた達の老いる日まで、白髪になるまで背負っていこう。私はあなたを造った。私が担い、背負い、救い出す」と。私達を創造された神様は、私達を最後まで担っていくと約束されています。この神様の言葉に信頼し、すべてを委ねて生きるのです。
◎このイザヤ書の救いの約束はイエス様の誕生において実現しました。そのイエス様も私達にこう呼びかけておられます。「疲れた者、重荷を負う者は誰でも私の元に来なさい。休ませてあげよう」と。私達は皆、疲れた者・重荷を負う者です。その私達にイエス様は「私の元に来なさい」と招いておられる。主イエスは世の人と共に歩み、最後は命をかけて世の人を救ってくださった方です。私達が味わう苦しみ・悲しみ・辛さ・苦難のすべてを自ら味わい、そのすべてを担い、救い出し、勝利してくださった方です。その主イエスの元にこそ真の平安があるのです。ダンテが求めた平安、アウグスティヌスが教えた平安が主イエスの元にあるのです。その平安は、私達に再び立ち上がる命と力、勇気と希望、愛を与えてくれます。主はいつも私達の重荷を共に担い共に歩んでくださいます。共にすべてを主に委ねて生きて参りましょう。