説教『野の花・空の鳥を見よ』(ルカ12:22~31)

2014年9月21日                主日礼拝・説教要約
説教『野の花・空の鳥を見よ』(ルカ12:22~31)

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◎9月も下旬に入り、清々しい天候が続いています。今朝も気持ちの良い朝を迎えました。先週の敬老の日の礼拝と祝会は、多くの方と共にご高齢の皆さんのご長寿をお祝いし、和やかで心豊かなひと時を過ごしました。今週は崔善愛さんのトークとコンサートが予定されています。豊かな会となることを祈ります。
◎今日選びました御言葉は、ルカ福音書12:22~31です。今日のメッセージは前回のメッセージ「すべてを神様に委ねて生きる」と深くつながっています。今日の御言葉は、マタイ福音書6章の記事、山上の説教の中の「野の花、空の鳥のたとえ」とほぼ同じ内容です。「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」というメッセージを伝えています。今日はこのことを心に刻んで参りましょう。
◎冒頭の12:22には「それから…」とあります。「それから」とは前回の「12:13~21の後で」と言うことです。そこで語られていたのは、どんなに富を積んでも人の命の保障とはならないこと、人の命はいつ奪われるかもしれないこと、結局、人の命は神に与えられたものであり、預かりものだということです。そのことを受けてイエス様は弟子達に向かって教えられた。それが今日の教えです。それはどういう教えかと言うと、「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ」ということです。私達にとって最も大切なのは命であり、体である。食物も衣服も命と体を保つための手段である。だから、そのことで思い悩むなというのです。ここで教えられている弟子達や群衆は貧しい人達です。明日の食べ物が確保できるかどうか分からない、そのような生活の不安を抱えていた人達です。そのような人達にイエス様は「思い悩むな」と教えるのです。だから、主イエスの言葉は何より貧しい人達に対する慰め・励まし・平安を告げる解放の言葉であったと言えます。
◎その具体例として、イエス様はカラスと野の花を語ります。烏は不浄な鳥、嫌われる鳥です。その烏でさえも神は養っておられる。種もまかず刈り入れもせず倉も納屋も持たない烏を神は愛し、養っておられる。ましてそれ以上の価値をもっているあなたがたを神は養わないはずはないと教えるのです。また野の花は働きもせず紡ぎもしないのに美しく着飾ったソロモン以上に美しいではないか。神は野の花を美しく咲かせているではないかと語り、あなたがたをそれ以上に装って下さらないはずはないと教えるのです。
◎イエス様はここで何を教えておられるのでしょうか。今日はここから3つのことを学びたいと思います。
第一は、神様は私達がどんなに貧しく、苦しくとも必ず私達を守ってくださる、養ってくださる、だから、神様に信頼し、安心して生きよ、思い悩むな、ということです。「思い悩む」とは「心が分かれる、分裂する」を意味します。私達は悪いことをあれこれ考え、心をすり減らし、生きる喜びを失うことがあります。そういう私達に主は「野の花を見よ、空の鳥を見よ」と教えるのです。鳥達は何も持っていないのにあれほど美しく鳴いているではないか、花々は何も装わずにあんなに美しく咲いているではないかと問いかけられます。これは何もしないでいいとおっしゃっているのではありません。自分で何とかしなければという不安と焦りの中に生きるのか、神への信頼の中で生きるのか。不安と焦り、思い悩む自分という基盤に生きるのか、神と言う基盤に生きるのかを問うておられるのです。内村鑑三は若き日、「君は内側ばかりを見ている。なぜ、君の外、十字架上の主イエスを見ないのか」という言葉で信仰に目覚めました。世界には神の恵みが溢れています。思い悩むのではなく、外に溢れる神の恵みに目を向け、その神の恵みに自分を委ね、神への信頼と安心の中に生きていけと教えるのです。この「思い悩むな」という教えは、私達の心を自由にし、解放する教え、神の恵みに目を向け、信頼せよという恵みの教えであると言えます。
◎第二は、各々与えられた所、置かれた所で精一杯に生きよ、花を咲かせよということです。野の花は、置かれた場所で精一杯花を咲かせています。私達もそれぞれ神から与えられた賜物・能力があり、置かれた場所も異なります。私達は他の人と比べ、自分を不幸だと思うことがあります。しかし、不幸を嘆くのではなく、私達は置かれた場所で与えられた能力を最大限に発揮して生きなければなりません。どんなに苦しい状況・環境でも全力で生きること、精一杯に自分の花を咲かせることが神に求められているのです。
◎第三は、今を生きよ、今日と言う日を精一杯生きよということです。「今日は野にあって明日炉に投げ入れられる草でさえ神はこのように装ってくださる」とあるように、たとえ明日滅びようとも今日と言う日に力の限り花を咲かせること、明日のことを思い悩まず、今日と言う日を全力で生きることが大切です。
思い悩むことは不信仰です。思い悩みを捨て、すべてを神に委ねて安心と平安の中に生きて参りましょう。