2014年12月14日 待降節・第3主日礼拝・説教要約
説教『狭き門より入れ』(ルカ13:22~30)
◎待降節の第3主日を迎えました。教会では次の主日にクリスマス礼拝を捧げます。今週もイエス様を我が救い主として心から迎えることができるよう祈りつつ過ごして参りたいと思います。今日は衆院選挙となっています。良き選択をし、この国が神の御心に適う歩みをなして行けるよう祈って参りましょう。
◎今日の取り上げる聖書は、ルカ13:22~30です。まず冒頭の13:22には「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた」とあります。「エルサレムに向かう」とは「十字架に向かう」ことです。このことが最初に記されているのは9:51です。9:51が第一段階に入ったとすると、13:22は第二段階に入ってことを示しています。エルサレムに近づくにつれ、主の教えは次第に熱を帯び、弟子達に対しても主に従う覚悟をより強く求めるものになっていきます。そのような時にある者が尋ねます。「主よ、救われる者は少ないのですか」と。なぜ、彼は、このような質問をしたのでしょうか。それは、第一に、すばらしい主の教えに心打たれながらも主に従う者が少なかったからかもしれません。第二に、当時、ユダヤ人の間で救われる者は多いのか、それとも少ないのか、議論されていたからかも知れません。
◎そのような理由で質問をするのですが、主の答えは、「狭い戸口から入るように努めなさい」でした。
これは質問に対する答えになっていません。ただ主は、信仰の道・神への道・救いへの道は、救われる人が多いから進む、少ないから行かない、というものではない。救いへの道は、本来、狭いのだ。その狭い戸口から入るように努めなさい。こうおっしゃるのです。しかも、一人に向かってではなく、一同に向かっていわれたと言いますから、この主の教えはすべての人に向かって語られ、教えられたものと言えます。
◎では、どうして救われる道・門は狭いのでしょうか。マタイ福音書7:13を見てみると、こうあります。
「狭き門から入りなさい。滅びに至る門は広く、その道も広々としていてそこから入る者が多い。しかし、 命に至る門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない」と。狭き門とは命に至る門であり、広き門は滅びに至る門であるという。この狭い門、広い門とは何を意味しているのでしょうか。その手掛かりを与えてくれるのが旧約聖書です。旧約には祝福と呪いという二つの道があると書かれています。神に従う時に祝福があり、神に背く時に呪いがあると。では神に背く道とはどういう道をいうのでしょうか。それは、神ならぬものを神として拝む偶像崇拝の道です。聖書に登場する偶像崇拝は農耕の神々を拝む信仰を言います。イスラエルに約束されたカナン地方には豊作と豊穣の男性神・バアル、女神アシュラなどの農耕神がいて熱心に拝まれていました。それに対してイスラエルの民は天地創造の神、奴隷の地エジプトから脱出させてくださった愛と憐れみの神、救済の神、真の神であるヤハウエを崇拝していました。ところが、イスラエルはカナンに入るとカナン人が拝んでいた偶像を崇拝するようになりました。
◎今、毎週水曜日の祈祷会で列王記を学んでいます。サウル王・ダビデ王・ソロモン王と3代続いたイスラエル統一王国はBC922年に南北に分裂します。北イスラエル王国は約200年間続き、20代の王が立ちますが、そのすべてが偶像崇拝に走ります。南ユダ王国は約340年続き、20人の王が立ちますが、その内、12人が偶像崇拝に走ります。なぜ、ほとんどの王が偶像崇拝に歩んだのか。それは偶像崇拝の方が人間として受け入れやすいからです。というのは偶像崇拝は自分の思いや願いを叶えてくださいと拝むことが、その本質だからです。それに対して聖書の信仰は自分の思いよりも神の御心・み旨を第一にする信仰です。自分を捨てて神を主とし、第一とする信仰です。そのような信仰は受け入れにくい、理解し難いものです。その意味で狭き門です。つまり、狭き門とは神を第一とし、広き門とは自分を第一とする信仰です。多くの人は広き門に進もうとしますが、主は狭き門こそ命の門であり、広き門は滅びに向かう門だと言います。
◎そして、主は狭い戸口から入るように努めなさいと呼びかけられます。躊躇する私達に対し、主はやがて戸口は閉められるぞ、そうなった時、主の教えを聞いたとか、主と食事を共にしたとか、神の民に属しています、とか言っても通用しない、むしろ後の者が先になり、先の者が後になるぞ、と警告されます。
信仰とは神様と私の関わり・関係です。しかも今の私との関係です。親族や家族、昔は関係ありません。
問われているのは、自分が今、本当に神様に、イエス様に従っているかどうかということです。今必要なのは、先立ちたもう主イエスを見つめ、主の御後に従うことです。私達が歩むべきは狭き門です。主は、私達に先立ち、また、私達と共に歩んでくださいます。主と共に真の命に至る道へと歩んで参りましょう。
信仰の道はマラソンのように長い道。日々、悔い改め、神に立ち帰りながら主と共に歩んで参りましょう。