説教『私に立ち帰れとの神の叫び』(ルカ13:35~39)

2014年12月28日                 年末主日礼拝・説教要約
説教『私に立ち帰れとの神の叫び』(ルカ13:35~39)

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◎今年最後の主日を迎えました。先週はクリスマスの礼拝・祝会・集会が持たれ、祝福された時を過すことができました。心より感謝します。救い主誕生の恵みを共にしたことですが、ここで問われるのはその恵みにいかに応えるかです。その恵みに応える道はどこにあるのか。それは主を送られた父なる神の元に立ち帰り、神の御心を第一として神と共に歩み始めることです。今年最後の礼拝においてこの1年の歩みを振り返りつつ、懺悔と感謝の思いで礼拝を捧げましょう。今日はそれにふさわしいみ言葉が与えられています。ルカ13章31~35節を取り上げ、私達に与えられている課題と恵みを受け止めて参りましょう。
◎今日の御言葉を先ほど読んでいただきましたが、ここはイエス様の思いが実に率直に語られた箇所です。
特に34節の言葉、「エルサレム、エルサレム、預言者達を殺し、自分に遣わされた人々を打ち殺す者よ、私は何度お前たちを集めようとしたことか」は実に深い嘆きです。ここにはこれから向かわれるエルサレムに対する深い思いが込められています。ではなぜ、イエス様はエルサレムに対して激しく非難し、嘆いておられるのでしょうか。それは神殿のある都・神の都でありながら神の御心に反して歩んで来たからです。特に南北分裂王国時代、ほとんどの王は偶像崇拝に走り、民も神から離れていきました。宗教者も同様でした。後に律法を重んじる人々が出てきますが、律法主義に走り、神の真の愛と真実、御心は見失われ、その信仰は形骸化し、御心から離れていきました。神は預言者達を送り、神に立ち帰るように呼びかけましたが、イスラエルの民は預言者の言葉に耳を傾けず、殺害してきました。これが嘆きの背景です。
◎そのようなエルサレム・イスラエルの民に対して神様は何度も呼びかけて来られました。特に「めんどりが雛を集めるように私達を懐に集めようとされた」との言葉は心に響きます。詩編17編に「神よ、瞳のように私を守り、あなたの翼の陰に隠してください」とあるように、旧約聖書の随所にある「御翼の陰」は「母親のような神の愛」を表しています。神様とは母親のように私達を必死でその懐で守る方なのです。
◎ところが、民はそのような神を拒否してきました。そのような民は「見捨てられる」とイエス様は警告しておられます。そして、そのように拒否したままだと、イエス様が再臨される時までイエス様に出会うことはない、つまり、神様の決定的な裁きが起こるぞと警告しておられるのです。このエルサレムに対する嘆き、イスラエルの民に対するイエス様の深い嘆きは、私達に対する嘆きでもあります。なかなか神様の元に帰ろうとしない私達。神様の警告を無視し、それぞれの神を立てて神ならぬものを神とし、自分勝手に生きている私達。そのような私達をもう一度、神様に立ち帰らせるためにイエス様はエルサレムに向かわなければならなかった、十字架へと向かわなければならなかったのです。イエス様は、もう一度、私達を神の懐に集めるためにエルサレムに向かい、十字架にお架かりにならなければならなかったのです。
◎さて、そのようにイエス様はエルサレムのことで深く嘆かれ、また、エルサレムに向かう決意を新たにされたきっかけは何かというと、31節にあるように律法を重んじるファリサイ派の人達が「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています」と進言したからです。ヘロデとは、イエス様誕生の時の王ヘロデの息子、ヘロデ・アンティパスのことです。当時、彼はガリラヤ地方の領主でしたが、弟の妻ヘロデヤを奪って妻としたことで洗礼者ヨハネから厳しく非難され、そのヨハネを捕え殺害した人物です。権力欲の強い、ずるがしこい人物。イエス様は彼を「狐」と呼んでいますが、そのような人物だったのです。そのヘロデがイエス様を殺そうとしていると言うのです。その進言に対してイエス様はこう言われます。「行って、あの狐に『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気を癒し、三日目にすべてを終える』と私が言ったと伝えなさい。私は今日も明日もその次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはあり得ないからだ」と。「三日目にすべてを終える」とは、十字架と三日後の復活を暗示していると思われます。つまり、自分はこの世の人々を救うために歩んで行かなければならない。最後はエルサレムに行き、十字架に架かり、救いを完成しなければならない。だから、ヘロデを恐れる暇はないとはっきりと答え、改めてご自分の使命、十字架への道をはっきりと告げておられるのです。
◎イエス様は、自分が神から遣わされた最後の預言者であり救い主であるとの自覚を持っておらました。
イエス様は、神に立ち帰るように愛の呼びかけをするために遣わされた救い主であったのです。イエス様は神の切なる思いを伝えます。その神の歎きは父なる神としての歎きです。なぜ、立ち帰れと神は呼びかけるのか。それは私達が神から来て神に帰っていく存在、神の元でこそ真の命・真の自分があるからです。
それは放蕩息子の父の姿です。私達は主の深き歎きの中に神様の立ち帰れとの切なる叫びを聞くのです。