説教『神様は私達の心をご存じである』(ルカ16:14~18)

2015年 3月15日            主日礼拝・説教要約
説教『神様は私達の心をご存じである』(ルカ16:14~18)

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◎受難節・第4主日を迎え、受難節も後半に入りました。復活祭まであと3週間、主の御受難を覚えなが
ら祈りつつ歩んで参りましょう。先週は3・11を覚えながらの1週間でしたが、その3月11日に橋本和弥兄が突然のように天に召されました。前日は教会のエアコンの修理をしておられ、最後まで教会のために尽力されました。また、3月2日に近藤雅子姉が天に召されたことが先週、伝えられました。教会の設立時からの姉妹です。3月に入りお二人を天に送り悲しみが溢れますが、信仰者としての姿から励まされます。特に橋本兄の「神様と出会えたことが人生で最高のことだった」の言葉を心に刻みたいと思います。
◎さて、今日も聖書の御言葉に聴いて参ります。今日の箇所はルカ16:14~18です。前回は16:1~13「不正な管理人」から5つのことを学びました。ところが、それに続く今日の御言葉の冒頭、16:4には「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いてイエスをあざ笑った」と言います。ファリサイ派とは律法を厳格に守る人達です。その一部にお金に執着する人々がいてイエス様の話を聞いてあざ笑ったと言います。彼らは何をあざ笑ったのでしょうか。一つには、主が不正な管理人の抜け目なさ・賢さをほめたことでしょう。第二に「不正にまみれた富」と言う言葉を笑ったのでしょう。なぜなら、彼らにとって富は勤勉の報酬だったからです。第三に「神と富とに兼ね仕えることができない」の言葉を笑ったのでしょう。やはり富は勤勉の報酬であり、勤勉は神への信仰の表れだったからです。神と富に兼ね仕えることができると彼らは考えていた。だから、主の言葉に納得がいかず、主をあざ笑ったのでしょう。
◎そのような嘲りの笑いが起こった時、主は16:15~18のように語られたと言います。ここは分かりづらい所ですが、ここには主の深い思いが込められていると言えます。ここには3つのことが教えられています。第一は、「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである」ということです。さきほど、3つの理由で彼らは主を嘲ったと言いました。第一の理由は、主が不正な管理人の抜け目なさをほめ、それに学べということでした。ファリサイ派は不正な人間から学ぶ物はないと言って笑ったのに対し、主は不正を犯す者からも学ぶことができるとおっしゃっている。ここには、ファリサイ派にはない自由と柔軟性、謙虚さがあると言えます。それに対してファリサイ派の人々は不自由であり、形式的であり、高慢であると感じます。それは彼らが世の人々の評価を気にしていたからでしょう。
世の評価を気にするあまり、偽り・偽善に陥っていた。そういう彼らの心を見抜いた主は、「神は私達の心をご存じである。もっと自由に真実に生きよ」と教えるのです。人の評価・この世の評価ではなく、神様を相手に生きよ、私達の心を見抜いておられる神、私達の心をすべて知っておられる神を相手に生きよ、形式主義・偽善から解き放たれ、もっと自由に謙虚に真実に生きよと主イエスは教えておられるのです。
◎また、主をあざ笑った第二の理由・第三の理由は主が富を軽視したことでした。彼らにとって富は勤勉の結果であり報酬である。また、信仰の表れである。そう考えていたからこそ主の言葉を笑ったのでしょう。しかし、富を高く評価する彼らの心の中には富を得るために懸命に働いている自分を正当化する思いがあったこと、神に仕えていると言いながらお金・富のために働いている彼らの思いを主イエスは見ぬいておられました。そういう彼らに対して主は、「人に尊ばれるものは神には忌み嫌われる」と語り、あなたがたの心をすべてご存じの神を恐れて生きよ、人間・世間を相手にして生きるのではなく、神様を相手にして生きよと教えるのです。「主を畏れることは知恵の初め」。神を恐れて生きることを教えるのです。
◎第二の教えは、「今や神の国は近づいた。積極的に主イエスの救いを求めよ」です。主は、「律法と預言者の時代」、つまり、旧約の時代は、洗礼者ヨハネの時までであった。主イエスが到来した今、神の国が始まった。今や「誰もが力づくでそこに入ろうとしている」、多くの人々が懸命になって主が告げる神の国に入るために必死になっている。今や律法を守るだけで救われるのではない。自分から主体的・積極的に主イエスに近づき、主の教えを聞き、自ら積極的に神の国に入りなさい。そう教えるのです。
◎第三の教えは、しかし、だからと言って律法の軽んじてはならない、特に、律法の根底にある「愛」を忘れてはならないということです。そのことを教えるために主は離婚の規定を取り上げます。律法には「離縁状を渡せば離縁できる」とあり、男達はその規定を盾に勝手な理由をつけて離婚していたのです。しかし、主は、妻を離縁して他の女を妻とする者も、離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになると言って簡単に離縁することを戒めます。それは、二人を結びつけたのは神であり、二人は愛を全うしなければならないからです。律法の根底には神と人への愛があります。この愛を大切にせよと教えるのです。