説教『祈り、喜び、感謝して生きる人生』(Ⅰテサロニケ5:16~18)

2015年 5月3日  主日礼拝・礼拝説教(今年度目標聖句)要約
説教『祈り、喜び、感謝して生きる人生』(Ⅰテサロニケ5:16~18)

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◎ 5月最初の主の日を迎えました。新緑の美しい季節を迎えています。今日は、先日の教会総会で採択された、
今年度の目標聖句「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」を取り上げ、こ
の聖句の意味、込められた思いを共に味わい、心に刻み、今年度の信仰生活の目標にして参りたいと思います。
この聖句をなぜ選んだのか。それは今年度の課題、「礼拝を大切にし、祈りの生活を築いていく」を担って行く時に最もふさわしいと思ったからです。今日は、この礼拝と祈りと聖句がどう結びつくのかも見ていきましょう。
◎まず、聖句の冒頭「いつも喜んでいなさい」の意味を考えてみます。この聖句のあるテサロニケの信徒への手紙は伝道者パウロが書いた手紙ですが、なぜ、彼はいつも喜んでいなさいと教えているのでしょうか。ここには、聖書に一貫する信仰の喜びが隠されています。旧約聖書にネヘミヤ書がありますが、その中に宝石のような言葉があります。「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」という言葉です。これは、紀元前6世紀、50年間続いたバビロン捕囚から解放され、帰還し、崩壊した都エルサレムを再建したイスラエルの民が集められ、律法が語られた時に指導者ネヘミヤが民衆に語った言葉です。律法の言葉を聞いて泣き出した民に向かって、ネヘミヤは「悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」と励まします。「喜びが力の源泉である」とは、一般社会でも言えます。仕事・学問・スポーツ・芸術・恋愛・結婚など、その根底には喜びがあります。喜びがエネルギーとなっています。信仰もそうです。信仰にも喜びがある。だから、続けられるのです。旧約聖書の場合、信仰の喜びの源泉は出エジプトの出来事に表された「神の救い・恵み・愛」にあります。新約聖書の場合は、イエス・キリストの出来事、十字架と復活の出来事に表された「神の救い・恵み・愛」にあると言えます。イエス様は十字架によって私達を苦しめてきた罪をゆるし、死に勝利された。そのことが復活の出来事によって明らかになった。しかも、復活の出来事は復活の命・永遠の命への希望を与えてくれます。さらに、やがてイエス様が再び世に来られる時、この地上に救いを完成してくださる。この約束と希望があるので現在の苦しみに耐えることができます。この罪の赦し、復活の命と再臨の時の救いの完成、この信仰が私達に大きな喜びを与えてくれます。私達はイエス様によって罪赦され、罪から解放され、神と和解し、神と共に生きていける。神様に深く愛されている。やがて、救いは来る。その喜びが信仰の喜びです。この喜びは気分が変わるように変わるものでも消えるものではありません。ある人はクリスチャンの徴・旗印は「喜び」であると書いています。喜びこそクリスチャンの証しです。「いつも喜んでいなさい」とはそのような意味があるのです。
◎ 次にパウロが教えていることは「どんなことにも感謝しなさい」です。感謝するという姿もクリスチャンの姿です。しかし、なぜ、クリスチャンはどんなことにも感謝できるのでしょうか。それは、どんなに辛いことがあっても、その辛い試練や困難の背後に神様の深き愛があることを知っているからです。前々回の礼拝でアブラハムのことを取り上げました。彼の人生も数々の苦難と試練が襲いましたが、それは彼の信仰を鍛錬するためのものでした。神は彼を愛するがゆえに試練を与えたのです。私達の人生にも数々の試練や困難が襲いますが、それは愛するが故の神の試練なのです。そう受け止める時、人生のいかなる試練や困難も神からの贈り物として感謝して受け止めることができます。病気と貧乏の中に生きた信仰者・徳永規矩は「病気と貧乏とは私が授かった職業でありこの寝床は私の受け持ち工場です。神様はその全能の力によって無智無力な私をこの工場において運転し、卑しい土の器にすぎない私でさえも神の栄光のために特別のお役を立ててくださった」と書いています。どんな所にも神の愛と恵みは溢れていることを知っています。だからこそ私達はどんなことにも感謝できるのです。
◎ 最後にパウロは「絶えず祈りなさい」と教えています。この祈りこそ、いつも喜び、どんなことにも感謝できる秘訣なのです。祈りは信仰を支える土台であり、信仰を養う主食であり、神様との対話であり、神と私達を結び、つなげる絆です。幼児が母親に向かって何でも話しかけるように話しかける。怖いことがあったら「恐いよ」と叫び、うれしいことがあったら「うれしい」と語りかける。そのように私達は神様に何でも話しかけ、呼びかけ、喜び、感謝する。そのようにして私達と神様の間の絆は強められます。イエス様は弟子達に部屋に入って神に祈るように教えました。私達は常に神様に対して1対1で祈ることが求められます。イエス様は毎朝、山に登り、森に入り、一人で祈られました。祈りの中で幼子のように何でも隠すことなく祈られました。しかし、同時に祈りの中で変えられ、神の御心が成るようにと祈られました。私達は祈りの中で自己本位から神本位に変えられます。悲しみは喜びに、絶望は希望に、後ろ向きが前向きに変えられます。だから絶えず祈る必要があります。
最後に礼拝に触れておきます。信仰の喜びを常に思い起こしてくれるのが毎週の礼拝です。礼拝ごとに罪を悔い改め、罪の赦しに福音を聞き、神に感謝し、神を賛美します。礼拝と祈りの生活が感謝と喜びを生み出すのです。