説教『神の賜物としての信仰と愛』(ルカ17:1~6)

2015年 4月26日          主日礼拝・礼拝説教要約
説教『神の賜物としての信仰と愛』(ルカ17:1~6)

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◎ 4月最後の主日、復活節第4主日を迎えています。初夏を先取りするような天候が続き、幼かった若葉が日に日に大きくなっています。新年度が始まって一月が経とうとしていますが、教会では今日、総会が開催され、新たな目標・方針・聖句・課題・予算が決まり、新たな歩みが始まります。その教会の歩み、一人一人の信仰生活の原動力となるのは神様の命と力、愛と恵み、祝福です。今日も御言葉を通してその原動力を受けて参ります。
◎ 今日はルカによる福音書17:1~6を取り上げます。この後の17:11からイエス様の伝道の旅は新たな段階に入ります。ガリラヤ伝道を第一段階、ガリラヤから17:10を第二段階とすると17:11以降は第3段階です。ですから、17:1~10は主の伝道活動の第二段階の結びの部分と言えます。弟子達に教えてこられた主の教えが凝縮した所です。今日はその前半、17:1~6を取り上げますが、ここには3つの教え、第1は「つまずかせてはならない」、第2は「赦しなさい」、第3は「カラシ種一粒の信仰だけで十分であること」が教えられています。
今日は、その3つの教えを一つずつ、見て行き、そこから主が語り掛けているメッセージを聞いて行きましょう。
◎第1の教えは「つまずかせてはならない」です。「つまずき」とは、ギリシャ語でスカンダロン、「わな」とか「落とし穴」を意味します。私達は周囲の人の言葉や態度、行為によって感情的になったり、人間不信に陥ったり、希望を失うことがあります。そのように、この世には私達を陥らせる「わな」や「落とし穴」が一杯です。
しかし、イエス様は「つまずきは避けられないが、つまずきを与える者は不幸だ」とおっしゃっています。特に小さい者をつまずかせる者は首に石臼を懸けられて海に投げ込まれた方が良いとさえおっしゃっています。親が子どもを、教師が生徒を、牧師が信徒をつまずかせることは、あってはならないことなのです。特にルカ福音書では弟子集団の中で、教会の中でつまずかせてはならないと教えます。人間関係、男女関係、金銭問題、価値・考え方の違いによる衝突や分裂、権力争いなどで互いにつまずかせてはなりません。つまずかせることは、罪であり、愛と配慮の欠如、謙虚さ・信仰の欠如を意味します。伝道者パウロは、偶像に備えられた肉を食べることで信仰の弱い者をつまずかせてはならない、配慮せよと書いています。しかし、私達は自分自身を振り返ると人をつまずかせてばかりです。私達は心が痛み、ただ神の御前に懺悔し、悔い改めるしかありません。私達は、つまずかせてはならないという教えを聞き、深く懺悔すると共に、神様の深き愛をもって周囲の人達を深く思いやり、配慮し、愛をもって他者・隣人に仕えなければならないことを教えられます。これが第一のメッセージです。
◎第2の教えは「赦しなさい」という教えです。17:3~4にはこうあります。「もし、兄弟が罪を犯したなら、戒めなさい。そして、悔い改めたなら赦しなさい。1日に7回、あなたに罪を犯しても、7回悔い改めますと言ってくるなら、ゆるしてやりなさい」と。他の人が罪を犯したとき、赦すことは難しいことです。しかも、1日7回も赦すことは私達にはできません。それなのになぜ、主は私達に赦せと教えるのでしょうか。その理由は、マタイ18:21以下に書かれています。主は、1万タラントン(約1兆円)の借金を王にゆるされた家来が100
デナリオン(100万円)の借金のある男を許さず、ついに怒った王から牢に投げ入れられた話を語られ、私達が莫大な借金、つまり、神に対する大きな罪を赦された者であるから、他者の小さな罪を赦しなさいと教えておられるのです。私達は、イエス様というお金に換算できない実に尊い命によって罪赦され、神様の豊かな恵みの内に生かされています。そうであれば、隣人の罪を赦すほかありません。私達は莫大な罪をイエス様という実に尊い犠牲によって赦されています。であれば、他者の罪を一日7回以上、赦せるのです。イエス様は、そのように「赦しなさい」と教えることによって、私達に与えられている恵みがいかに大きいのかを教えておられるのです。
◎第3の教えは「私達にはカラシ種一粒の信仰があれば十分だ」という教えです。そのように主が教えたきっかけは、弟子達が「私共に信仰を増してください」とお願いしたことにありました。弟子達は「つまずかせてはならない」「一日7回赦せ」という教えを聞き、主に向って「信仰を増してください」と切に願ったのでしょう。
それに対して主は「もし、あなたがたにカラシ種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に抜け出して海に根をおろせと言っても、言うことをきくであろう」と言われます。これはどういう意味でしょうか。これは「信仰とは人間的な努力で身に着けるものではなく、神から恵みとして与えられるもので、その神からの賜る信仰がからし種一粒でもあれば、その力は偉大で、何でもできる」という意味です。信仰とは人間的な所有物ではなく、神様が私達に贈られる贈り物・プレゼントです。マルティン・ルターは「信仰とは私達の内に働く神の働きである」と書いています。私達にはもう既に宝石のような信仰がイエス様を通して与えられています。それはからし種のようなものかも知れませんが、それは神様が与えてくださった尊い賜物で、私達が考える以上に大きな力を発揮します。私達はその信仰によってどんな試練・困難も乗り越えることができます。信仰は大きな力なのです。