2015年 7月 5日 主日礼拝・説教要約 説教『信じて祈り続けよ』(ルカ18:1~8)
◎ 7月最初の主の日を迎えました。連日、雨が続きますが、健康に留意し、元気に過ごして参りたいと思います。
先週の創立記念日礼拝には加藤先生にお話をしていただきました。罪の赦しの信仰、よみがえりの命への信仰に立つキリストの支配する共同体としての教会、世の責任を担う教会について語ってくださり、私達の原点を再認識したことです。鶴川北教会は来年、創立40周年を迎えます。この原点に立って、さらに歩んで参りましょう。
◎ 今日の聖書のメッセージは加藤先生の話と深く関係しています。私達は罪の赦しの信仰、復活の信仰に立って歩んでいますが、現実の世界はどうでしょう。この世界のどこに神の正義・平和・愛があるでしょうか。世には悪と罪、苦しみと悲しみが満ちています。そういう世の現実を前にして今日の御言葉は、「気を落とさずに祈り続けなさい」と教えています。今日は、主のお話から祈り続けることの大切さを共に心に刻んで参りましょう。今日の記事の後にも二人の人物が祈る姿が描かれています。今年度の教会の課題は「礼拝と祈り」です。今回と次回、2回にわたって「祈り」について、さらに「祈りの生活」について共に学び、共に心に刻んで参ります。
◎まず18:2を見てください。ここには「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」が登場します。旧約聖書には、「裁判は神に属すること」であり、偏りがあってはならず、公平・公正でなければならないと明記されています。神を畏れる人は人を尊重し大切にします。ところが、この裁判官は神を畏れず人を人とも思わない人物であった。傍若無人で権力を振り回す、実に傲慢な人物だったのでしょう。こういう人物は現代でも見ることができます。◎そういう裁判官の元に一人のやもめ(未亡人)が来ます。そして、「相手を裁いて私を守ってください」と懇願します。こう言う時、裁判官はどうすべきか。イザヤ書1章には「搾取するものを懲らしめ、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ」とあるように、弱者を救済しなければなりません。しかし、この裁判官は面倒と思ったのか、彼女の訴えを聞こうとしません。ところが、やもめが、連日、何度も何度もしつこいほどお願いしたら、この裁判官は「あのやもめはうるさくてかまわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやってきて私をさんざんな目に遭わすに違いない」と言って、とうとう裁判をしたと言うのです。
◎主はこのような話をした後、こう言われる。「この不正な裁判官の言いぐさを聞いたか。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人達のために裁きを行なわず、いつまでも放っておられるであろうか。神様は必ず速やかに裁いてくださる」と。神を畏れず人を人とも思わない裁判官でさえ、やもめの訴えを聞いた。そうであれば、愛と憐れみ、正義の神が昼も夜も叫び求めている選ばれた人達をいつまでも放っておられることはないと言うのです。この「選ばれた人達」とは誰のことか。それは主イエスを信じる人達の群、教会の人々を指しています。教会に集う人達がなぜ選ばれたのか。それは主イエスによって救いがきたことを世の人々に知らせるため、また、やがて来る救いの完成の日に備えるためです。むろん、まだこの世に救いは来ず、人々は苦しんでいる。しかし、主はやがて来て、救いを完成してくださる。その日まで気を落とさずに祈り続けよ、そう、主は教えるのです。
◎では、「気を落とさずに祈り続けよ」とは、どう意味か、また、主のどんな思いが込められているのでしょうか。
第1に心に留めておきたいことは、その意味と思いです。祈り続けるとは、日々、何度も祈り続けることです。祈りとは、神に語り掛け、また、神の声を聴くこと、つまり、神との対話です。なぜ祈るのか。それは神様とは私達の父だからです。私達は親子の関係にある神に語り掛け、その声を聴き、神から愛と恵み、命と力、祝福を受けます。それは私達が生きて行く心・魂の糧。祈りとは魂の食事と言えます。神様も私達が祈ることを喜んでくださる。祈ることによって神は心を動かし、私達の言うことを聴いてくださる。だから、主は「求めよ、探せ、門をたたけ」と教えておられる。悪人でも我が子に良いものを与えるのであれば、神様はあなたがたに良いものを与えないはずはないと言われます。もちろん、祈ればすべて聴いてもらえるという訳ではありません。神様は、すぐに与えた方がいいものと、時間を置いた方がいいものと、別の物を与えた方がいいものを分けておられる。内村鑑三の文章に「聴かれざる祈り」があります。祈りが聴かれないと思う時も、祈りが聴かれたと思う時がある。聴いてもらえなかったことで聴いてもらえたのだと書いています。私も希望の大学に入れませんでしたが、結果として別の大学で最良のものを得ました。神様は必ず祈りを聴いておられる。だから、祈り続けるのです。
◎第二に心に留めておきたいのは、神への信仰を失うなと言うことです。祈りと信仰は表裏一体のもの。信仰を失えば祈らなくなります。信仰薄い私達は時に信仰を失いそうになります。しかし、主は、裏切ったペトロに「お前の信仰が亡くならないように祈った」と言われたように、私達の信仰を守っておられます。主が私の信仰を守っておられる。だから気を落とさずに祈り続けることができるのです。主は最後に「人の子が来る時、信仰が見られるだろうか」と言われています。これは私達への信仰への招きの言葉です。主が私達の信仰を守ってくださるのです。