説教『どん底からの祈りを聴かれる神』(ルカ18:9~18)

2015年 7月12日 主日礼拝・説教要約
説教『どん底からの祈りを聴かれる神』(ルカ18:9~18)

p_024

◎ 7月第二主日、聖霊降臨節第8主日を迎えています。先週は木曜日まで雨が続きましたが、翌日から梅雨の晴
れ間が広がり、今日は夏の太陽が照り付けています。どうぞ、体調に気を付けてお過ごしください。今日も御言葉を通して神様の豊かな命、愛と恵みを受けて参りたいと思います。前回は、「気を落とさずに祈り続けよ」というメッセージをいただきましたが、今日の御言葉も「祈る」ことについて教えています。二人の人物の姿を通して、信仰とは何か、祈るとはどういうことかが主によって教えられています。そこを一緒に見て行きましょう。
◎ここでは「ある人との出会い」があり、主はその人達に中にある問題を感じ、神に義とされるのはどのような人なのかを語ります。その「ある人々」とは「自分が正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」です。
「うぬぼれて」とは「自任して」「自分を頼りとして」と訳せます。つまり、自分は正しい人間で神を頼らずとも自分を頼りとして生きて行く自信がある人達、しかも、他人を見下している人達に向かって教えたと言います。
この人々は誰のことでしょうか。ファリサイ派の人達でしょうか。いやむしろ、この人々とは私達すべてを指しています。自分は正しい人間だと自任して他人を見下げる。これが人間です。主はすべての人の教えるのです。

◎ 主は教えるためにたとえ話をされます。ファリサイ派の人と徴税人の二人が祈るために神殿に上った。ファリサイ派とは律法を守ることに熱心で、律法を守ることが信仰だと思っていた人達です。そのために律法を知らず、行わない人達を罪人として批判していました。そのファリサイ派の人はこう祈ります。「神様、私は他の人のように奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではなく、徴税人のような者でないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の10分の1を捧げています」と。徴税人とは、ユダヤを支配していたローマ帝国の手先となって徴税する人達で、彼らは余分に徴収し懐を肥やしていました。このファリサイ派の人は、自分は悪いこと・不正なことをしていないことを感謝し、年に一度する断食を週に二度し、全収入の10分の1を捧げる信仰深い者ですと言って神の前に自分を誇っています。彼は祈りの中で他人を見下して感謝し、自分を誇っているのです。

◎ それに対して徴税人は「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながらこう祈ります。『神様、罪人の私を憐れんでください』」と。彼は、自分の罪深さのために神殿から遠く離れた所に立ち、神に目を上げることができず、悲しみの余り胸を打ちながら、ただひたすらに神の憐れみ、罪の赦しを乞い求めたのでした。
主は、この二人の姿を語った後、こう言います。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派ではない。誰でも高ぶる者は低くされ、謙る者は高められる」と。ここで主は、何を教えようとしておられるのでしょうか。今日は、主が語られたたとえ話から三つのメッセージをお伝えしたいと思います。

◎ まず、第一のメッセージは、神様はどのような人を義とされるのか、良しとされるのかということです。この話で義とされたのは徴税人です。どうしてはファリサイ派の人ではなく徴税人が神様に義とされたのでしょうか。
それは、ファリサイ派の人が自分に自信があり、自分を誇り、自分を頼りとしていたのに対して、この徴税人は自分を頼りとすることができず、自分の無力さ・絶望の中からただひたすらに神を頼りとし、必死に神の赦しを求めたからです。神様はただひたすらに神のみを頼りとする人を義とされるのです。ローマの手紙の中でパウロは「律法を実行することによっては誰一人神の前に義とされない。律法によっては罪の自覚しか生じない」と書き、善を行なえない自分を「私は何と惨めな人間のでしょう」と嘆いています。では、どこに救いがあるのか。
それは、イエス・キリストを信じることによってです。それは「信じる者すべてにお与えられている神の義」であると書いています。神様はただ神様、イエス様を頼り、信じることによって私達を義としてくださるのです。
人間は本来無力な存在です。無力な者として神は人を造られた。それは神に頼り、人に頼りながら生きて行くためです。神と共に、人と共に生きていく所に人間の本来の生き方があり、幸いがあるのです。そこに人間の謙虚な生き方があります。徴税人のように自分に打ち砕かれ、低くされ、神のより頼む者こそ神に義とされるのです。

◎ 第二のメッセージは、聖書の神様とはどのような方かということです。聖書の神は自分を誇る強い人ではなく、自分に絶望した弱き人に目をかけ、救いをもたらします。申命記7:7に「主があなたがたを選ばれたのはあなたがたが貧弱であったからだ」とあり、コリントⅡ12:9に「主は『力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』
と言われた」とあるように、神様は弱さ・貧しさの中におられ、働かれるのです。神様は弱さの中で働くのです。

◎ 第三のメッセージは、祈るとはどん底から神に向かって叫ぶことだということです。祈りには、感謝の祈り、賛美の祈りなどありますが、根源的な祈りは無力さ・絶望・どん底から神に救いを求め、叫ぶ祈りです。神様は私達の父です。父親は子どもの叫びに必死に応えるように、神様は私達の叫びを聞き、救いをもたらしてくださいます。神様はどん底からの叫びを聴いてくださるのです。私達はそう確信して神に祈ることができるのです。