説教『人はすべて神の子』(ガラテヤ3:6~8)

2015年 7月19日   主日礼拝・説教要約
説教『人はすべて神の子』(ガラテヤ3:6~8)

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◎先週は猛暑と台風で天候が大きく左右された一週間でした。政治の世界・国会でも国の在り方を左右する安保法案が衆院で強行採決され、私自身、心が引き裂かれる思いでした。私達は、愛と正義、平和が溢れる国・世界を実現するために政治に携わる者達が本当に謙虚に、真実に、誠実に歩むよう祈り求めていかねばなりません。
◎さて、今日は週報で予告したように「部落解放・祈りの日」礼拝を捧げます。これは日本基督教団が1975年7月15日の常議員会で特設委員会を設けて部落差別への取り組みを開始したことを記念して毎年7月の第二主日に部落解放センターの呼びかけで設けられたものです。鶴川北教会でこの日を覚えて礼拝を捧げるのは初めてだと思いますが、私がセンターの運営委員になっていることもあり、役員会で承認されて今日、礼拝を捧げます。

◎ 最初にお話すべきことは、なぜ、教会で部落差別の問題を取り上げるのかということです。それは、教会においても部落差別の問題があるからであり、差別の問題は信仰の問題でもあるからです。キリスト教が日本で解禁されたのは1873(明治6年)年ですが、その後、宣教師や伝道者達によって日本の各地に福音が宣べ伝えられました。身分の上下なく福音は宣べ伝えられましたが、いくつかの教会で差別事件が起こりました。旧士族出身のクリスチャンが被差別部落出身のクリスチャンと同じ聖餐の器を一緒にしたくないと言い出したのです。当時、聖餐のぶどう酒を一つの器で回し飲みしていたのですが、それを拒否したのです。岡山教会や浅草教会などで起こりました。一方で身分・階級の区別を超えて福音が宣べ伝えられながら、他方、差別が教会内にあったのです。

◎そのような差別はそれから100年近く経った現在でもなくなってはいません。今年、部落解放センターから出た『人間に光あれ』の中に近江平安教会の谷本一宏牧師の文章がありますが、谷本牧師が神学生の時、奉仕した教会の牧師は「(伝道集会の)このビラはA地区には配らなくていい。A地区は部落と呼ばれてガラが悪い。A地区の人が来ると教会が混乱する。今教会に来ている人も来なくなる」と言ったそうです。この部落差別で深刻なのは結婚や就職の時に起こることです。結婚では差別によって自死した人も多くいます。就職も身元調査をして被差別部落出身だと分かると採用しない会社があります。もちろん、部落差別には地域性もあり、地域によってはまったく見えないという地域があります。しかし、だからと言って差別がない訳ではありません。先日の東京教区・西東京教区の共催で部落解放・祈りの日の集会を開催しましたが、講師の崔善愛さんは、自分が指紋押捺拒否を決意したのは被差別部落出身の友人の話を聞いたからだと言われました。結婚したい人がいるけれど、部落出身であることを言うべきかどうか悩んでいると告げられた時、善愛さんは、なぜ、自分と関係のない過去の差別、いわれなき差別によってなぜ、苦しまなければならないのかと激しい怒りが湧いてきたと言います。そして拒否することを決意したのです。その友人のお母さんは「部落出身だということを死ぬまで誰にも言ってはいけない」と教えたそうです。被差別部落出身の俳優の有馬理恵さんという方と善愛さんが対談した時、公演が終わった後、帰り際に「私もあなたと同じです。頑張ってください」というメモを渡されることが何度かあったと言われたそうです。神学校時代の友人に自分が同性愛者であることを公にした友人がいます。彼は中高生の時に自分が同性愛者であることが分かった時、自殺を考えたそうです。日本の社会では同性愛者に対する激しい偏見・差別があります。私は彼によって自分の中に偏見と差別があることに気が付かされました。私達は何と多くの偏見と差別を持っていることか。そして、そのために実に多くの人達が傷つき、悩み、苦しんでいることか。

◎そのような差別に対して私達はどう対したらいいのでしょうか。聖書はどう教えているのでしょうか。旧約聖書を読むと、まず、創世記があります。そこには「神はご自分にかたどって人を創造された」とあります。人間は神の似姿として創造された。すべての人は神に似せて造られた神の子であることが記されています。また、レビ記には重い皮膚病の人達などを汚れているとして共同体から排除する記述があります。これは批判的に読む必要があります。しかし、他方、寄留者や孤児・未亡人など弱い立場の人達への愛と思いやり、共生も教えています。

◎しかし、何よりも私達が立ち返るべきはイエス様です。イエス様は、当時、差別され排除されていた罪人・徴税人などと一緒に食事をし、病人・障がい者を癒し、共に歩み共に生きられました。ヨハネ福音書8章では、姦淫の罪を犯した女性が連れて来られた時、「罪のある者が石を打て」と言われ、すべての者がいなくなった後、「私もあなたを罪に定めない」と言われたことが書かれています。同じ9章では「この人が罪を犯したのでも、両親が罪を犯したためでもない。神の業が現れるためである」といって生まれつき目の見えない目を癒されました。イエス様は偏見と差別をなくそうとされました。そして、差別の根源である罪を担い、その罪から解放された道を開かれました。ガラテヤ書には「あなたがたは皆、信仰によりキリストイエスに結ばれて神の子なのです」とあります。この世の人はすべて罪赦された神の子です。私達はすべての人を尊重しながら生きる者なのです。