説教『救いを求め続ける信仰』(ルカ18:35~43)

2015年11月1日      宗教改革記念日礼拝・説教要約
説教『救いを求め続ける信仰』(ルカ18:35~43)

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◎ 11月最初の主の日を迎えました。先週は1週早く永眠者記念日礼拝を捧げました。私達は愛する人を天に送る時、悲しみと寂しさが襲ってきますが、私達には永遠の命・復活の命が与えられています。その命の信仰が私達に希望を与え、強めてくれます。そのことを心に深く覚えることができました。今日は宗教改革を記念して礼拝を捧げます。1517年10月31日、マルティン・ルターがウイッテンベルクの教会に95か条の論題を貼りだし、宗教改革の口火が切られました。ルターは、聖書に基づいて「私達が罪から救われるのはイエス・キリストを信じる信仰によってである」ことを主張しました。今日は、この信仰とは何かということを一緒に考えて参りましょう。

◎今日はルカ福音書18:37~45を取り上げ、信仰について考えます。ここにはイエス様がエルサレムに向かって歩 まれた旅の最後の町エリコに向かう途中で起こった出来事が書かれています。目の見えない人が道端で物乞いをしていました。肉体労働ができなかったこともありますが、罪を犯したために目が見えないのだという偏見と差別により、家や地域から排除されて物乞いをして生きて行くほかなかったのでしょう。彼はなぜ、自分の目が見えないのか、なぜ、自分だけ不幸なのかと苦悩して来たと思います。そして、何とか目が見えるようになりたいと願いながら生きてきたものと思います。そんなある日、彼はいつもと違う気配を感じます。続々と群衆が道を通ります。尋ねると「ナザレのイエスのお通りだ」という。彼は病や障がいを癒すイエスという名を知っていたのでしょう。その名を聞くと「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください!」と叫び出しました。救い主・イエス様に目を癒してもらおうと必死に叫び続けました。道行く人々は「黙れ、静かにしろ」と制止しますが、彼は止めることなく、この時を逃すと、生涯目が見えないままであると思い、必死で救いを求めて叫び続けます。

◎この叫び声を聞かれたイエス様は彼を呼んでくるように命じます。そして、飛んで来た彼にイエス様は尋ねます。 「何をしてほしいのか」と。聞かずとも分かっていたのになぜ、主は尋ねたのか。それは、自分の願いと思いをはっきり伝えることによって彼の主体性・人間性を取り戻すためではなかったでしょうか。その問いに彼は答えます。「主よ、目が見えるようになることです」と。そうはっきり答えた後、主は言います。「見えるようになれ、あなたの信仰があなたを救った」と。そして、この目の見えない人は見えるようになったのでした。この癒しの出来事は、天地創造物語の一節、「神は『光あれ』といわれた。すると光があった」を思い起こさせます。主が命じるとそのようになった。これは、主イエスは神の子、神そのものであることを伝えています。この奇跡によって彼は神をほめたたえながら主に従います。主の愛の業、恵みが人を大きく変えることを伝えています。

◎これが今日の話ですが、この話は一体、何を伝えようとしているのでしょうか。私には二つのことを伝えようとしているように思えます。一つは、イエス様とは一体、どんな方なのかということです。イエス様は苦しみ・悲しみ・辛さ・絶望の中にいる人の叫びを聴き、必ずその苦しみから救い出して下さる方であること、その苦しみ・悲しみを喜びに変えてくださる方であることを伝えています。私達にも苦しみ・悲しみが襲ってくることがありますが、イエス様がその叫びを聴き、必ず助けてくださる。そのことを私達に教えていると言っていいでしょう。

◎そして、もう一つ伝えていることは、信仰とは何かということです。18:42でイエス様は「見えるようになれ。 あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃっています。この「信仰」とは何でしょうか。使徒言行録16:31に「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます」とあります。ここでも信仰が人を救うことが書かれています。ローマの手紙3章には「人が義とされるのは律法を行なうことによってではなく、信仰による」、「イエス・キリストを信じることによる信じる者すべての与えられる神の義です」とあります。つまり、人が救われるのは信仰によってであるとあります。この言葉はルターの心を動かしました。彼は神の義・神の救いは人間が努力して獲得する物ではなく、神から与えられる恵み・恩恵であることを知ったのでした。

◎そのように見て行くと、信仰とは何かが見えてきます。信仰とは信頼である。イエス様なら救ってくださるという主イエスへの信頼が信仰です。それは、主イエスは必ず救ってくださるという確信であると言ってもいいでしょう。さらに、主を信頼し、確信し、救いを叫び求めることが信仰だと言ってもいいでしょう。この目の見えない人が叫び続けたように、主に救いを求めること、求め続けることが信仰なのです。先日の教会修養会で、私達は「神よ」と呼びかけることが祈りであると学びました。叫びは祈りであり、信仰であることを教えられます。

◎しかし、信仰にはもう一つの側面があります。それは信仰とは神の恵み、賜物であると言う側面です。元来私達 には確たる信仰はありません。エフェソの手紙2章には「あなたがたは恵みにより、信仰によって救われました。 それは自らの力によるのではなく、神の賜物です」とある通りです。主はペトロに「あなたのために信仰がなくならないように祈った」と言われました。私達に信仰を与え、私達の信仰を守って下さっているのは主なのです。