説教『十字架への道備え』(ルカ22:1~13)

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◎3月最初の主日、受難節第4主日を迎えました。受難節も後半に入りました。ある説教書に、受難節の主日礼拝に行く時、バスや電車を使わずに歩いて教会に行き、その分を献金しているという人の話が出ていました。受難節の間、何かを犠牲にして生活している方もおられるかも知れません。十字架の苦しみと犠牲は、私達にとって重いものです。主の犠牲と苦しみにどう応えて生きて行くか。そのことを問い続けながら生活して参りましょう。

◎今日取り上げる聖書の箇所は、ルカ22:1~13です。この22章から主が十字架へと歩んで行かれる姿が描かれています。今日は、その冒頭、人間の企てが進む一方で、主イエスが最後の晩餐に向けて準備を進められる場面です。今日の箇所の前半は、祭司長・律法学者らが主を殺す企てを考えていたところに、イスカリオテのユダが協力を申し出る場面を、後半は主イエスが弟子達を遣わして最後の晩餐の席を準備させる場面が描かれています。今日は、この前半と後半で語られている二つの話を見ながら、ここで語られているメッセージを聴いて参ります。
◎まず前半から見て行きます。冒頭の22:1には「過越祭と言われている除酵祭が近づいていた」とあります。過越祭とは、元来、遊牧民の春の祭りであったようですが、その後、出エジプトの出来事と結びついて祝われた祭りです。イスラエルの民の叫びを聞き、民をエジプトから脱出させることを決意された神は、モーセを選んで指導者とし、エジプトの王ファラオと交渉させます。なかなか出エジプトを許可しないファラオに対して神は最後の災いを下します。それはエジプト中の初子を打つという災いです。ただし、門の鴨居に子羊の血を塗った家はその災いを過越すと言われていたイスラエルの民は、その災いを免れて、エジプト中が混乱する中、モーセに率られてエジプトを脱出します。それを記念した祭りが過越しの祭りです。除酵祭とは、元来、春の農耕の祭りに由来するもので、出エジプトの民が急いで除酵のパンを焼き、それを持って脱出したことを記念した祭りです。

◎そのような祭りが進む中、祭司長や律法学者達はイエス様を殺すにはどうしたらいいかを考えていたと言います。主イエスの出現に危機感を持ち、妬みを抱き、殺害を計画したのです。しかし、彼らは民衆を恐れていたとあります。彼らは神よりも民衆を恐れていたのです。「殺すなかれ」という十戒を破り、主イエスの殺害を計画していたのですから。しかし、そのような中で主の弟子の一人イスカリオテのユダが裏切り、主を引き渡す相談を持ち掛けてきます。祭司長達からすれば願ってもないことでした。彼らは喜び、ユダに金を与える約束をします。
◎しかし、なぜ、ユダは主を裏切ったのでしょうか。聖書には「ユダの中にサタンが入った」としか書かれていません。ユダは、単にお金欲しさからと言うだけではなく、主に裏切られたと感じていたのではないでしょうか。ユダは、ユダヤのローマからの独立と繁栄を願い、その指導者・王として主イエスを期待していた。ところが、主は十字架に向かって進んでおられる。その主に裏切られたと思い、主を裏切ったのではないかと思われます。そのように今日の記事の前半では、主を殺害するという人間の企みが着々と進んでいることが描かれています。

◎それに対して、後半の記事は、主イエスが十字架に向かって歩んでおられる様子が描かれています。主は二人の弟子に都エルサレムにおいて過越の食事の準備をするように命じます。主は、都に入ると水瓶を運んでいる男に出会うこと、その人が入る家までついていき、その家の主人に食事をする部屋を尋ねよ、すると席の整った二階の広い部屋を見せてくれると丁寧に指示します。二人が指示された通り行ってみると、主が言われた通りでした。
そのようにして主の指示によって過越祭の準備が整えられました。主の主導の元、準備が進められたのでした。◎このように、今日の前半では人間の企みが着々と進められて言ったのに対し、後半では神様の御計画の元、また、主イエスの指示と指導の元、過越祭の食事の準備、十字架への道が着実に整えられ、進められていることが分かります。これは何を意味しているのでしょうか。またここにはどんなメッセージが込められているのでしょうか。なぜ、前半では人間の企てが、後半では神の御計画が描かれているのか。では、前半と後半と比べたら、どちらが重要でしょうか。それは後半です。神様の御計画の方が重要です。ということは、聖書は今日の記事を通して、十字架の出来事は人間の企てのように見えるけれど、本当はそうではなく、神様の御計画であり、神の御計画に従って主イエスによって実行された出来事であることを伝えようとしている。そう言えないでしょうか。端的に言えば、罪ある人間の企てがいかに巧妙に立てられたとしても、最終的には神様の御計画と御業が勝利するということ、神は人間の企てをも包み込みその御計画の中に組み入れ、最後は勝利されることを伝えているのです。

◎「にもかかわらずの信仰」という言い方があります。「人間の罪は深い。にもかかわらず、神はその罪を赦し、救い出してくださる」「世界は罪と悪に満ちている。にもかかわらず、神はやがてこの世界に救いをもたらし、恵みと祝福に満ちた世界にしてくださる」と言う信仰です。いかに闇が深くても、神は「光あれ」と言い、光を射しこんでくださる。神は、主イエスは、十字架上で勝利される。そのことを今日の記事は教えているのです。