説教『神の言葉は永遠に滅びない』(ルカ21:29~38)

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◎2月最後の主の日、受難節第3主日を迎えています。昨日はリードオルガンの第一人者の伊藤園子先生を迎えて奏楽者の会を持ちました。改めて奏楽の豊かさと大切さを知りました。奏楽は礼拝に欠かせないものです。奏楽 者の皆さんも日々、練習を積まれています。皆で祈りつつ、さらに豊かな礼拝を共に作って参りたいと思います。

◎さて今日も聖書の御言葉から神様の御声・主のメッセージを聴いて参りましょう。今日取り上げるのは、ルカ 21:29~38です。ルカ21章は、主によって終わりの日のことが語られた小黙示と呼ばれる箇所ですが、これまで2回にわたって説教で語ってきました。今日はその3回目、最後としてこの「終わりの日」に備える信仰についてお話したいと思います。前回は、イエス様がエルサレムの滅亡を予告された後、終わりの日が来ることを語られた箇所を取り上げました。主は「解放の日が近い」と語られました。主が再び来られる再臨の日、終わりの時は世界が滅亡する日ではなく、解放される日・救いが完成する日であることを主は教えられたのでした。

◎では、その主の再臨の日・終わりの日はどのようにして分かるのか。その兆しはあるのか。そのことに答えたのが21:29~30の主の言葉です。「イチジクの木や他のすべての木を見なさい。葉が出始めるとそれを見て既に夏が近づいたことが自ずと分かる。それと同じようにあなたがたがこれらのことを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」。イチジクは日本の梅のようにまだ寒い冬の様相を見せている時に、若い葉を出し、夏の到来を告げる木です。そのように、戦争や暴動、飢饉や疫病、天変地異が起きたら、神の国が近づいていると悟りなさいと言うのです。ペトロの手紙に「主の日は盗人のように来る」とありように、終わりの日は突然、思いがけない時に来るという側面もありますが、今日の御言葉のように、終わりの日の兆しがあることも真理なのです。そのような兆しが見られたら、その徴をみて終わりの日に備えなければならないと主は私たちに教えるのです。

◎しかも、「葉が出始めたら」とあるように、葉が出たら花が咲き実を結ぶ。そのように終わりの日は実りの日・救いの完成の日であることが示されています。終わりの日・再臨の日とは、神の救いと恵みの支配が完成する日なのです。しかし、他方、私たちが心に留めておくべきことがあります。それは、神の国が到来する時、それまであった古い世界は滅びると言うことです。最後の試練と苦難の時が来ます。しかし、その後には神の国が実現する。そう言われるのです。21:38に「天地は滅びるが、私の言葉は滅びない」とあります。イザヤ書に「草は
 枯れ、花はしぼむ。しかし、神の言葉は永久に立つ」とあります。たとえ天地が滅びても神の言葉は滅びません。しかも、「私の言葉」とあるように、神の言葉であるイエス様(ヨハネ1章)は滅びない、主の言葉は滅びない、父なる神は滅びることがないのです。父なる神は愛と憐れみの神、恵みと祝福の神です。その父なる神と子なる神である主イエスは滅びることがない。ここに私達の揺るぐことのない絶対的な希望があります。その父なる神、主イエスがおられるからこそ、やがてこの世に神の国が実現する。救いが完成する。そのことを確信するのです。

◎19世紀に活躍したドイツの牧師にブルムハルト父子がいます。父ブルムハルトは熾烈な戦いの末に苦しむ女性から悪霊を追放した体験から「イエスは勝利者だ」という確信を得ます。主イエスの勝利、罪の赦し、罪と死への勝利、サタンへの勝利を確信して、多くの苦しみ人を救い出しました。他方、彼はこの世の罪と暗黒、悲惨も知っていました。その中から「神の国の到来への信仰」「神の国への待望の信仰」を深めていきました。毎年、今年こそ、その年だと言い、家の庭に馬車を用意し、再臨の主にいち早く駆けつけるべく終わりの日に備えてい
 たと言います。主イエスの勝利と救済は決定的でした。しかし、なぜ、終わりの日は来ないのか。それは人間の側に責任があると考えました。終わりに日に向けて神の国にふさわしい世界を準備すべきことを教え、「待ちつつ、急ぎつつ」生きるべきことを教えたのです。そのように神の国の希望と信仰が彼の人生を形作ったのでした。

◎それでは、そのような終わりの日を待望して生きる者は、今、この時をどう生きたらいいのでしょうか。そのことが今日の後半、21:34~36に書かれています。ここで主が第一に教えられていることは「放縦や深酒、生活の煩いで心が鈍くならないように注意しなさい」ということです。自分の心の欲するままに、好き勝手に生きる「放縦」、酒や世の魅力的な物に心を奪われる「深酒」、日々の「思い煩い」は心を鈍くする。自分のことばかりに心を奪われ、神と人に、そして、終わりの日に心が向きません。主は、それらに注意して、心を常に鋭くし、神と人に心向けて愛の教えを実践し、終わりの日に常に備えて、神と隣人のために生きるように教えるのです。

◎もう一つのことは「起ころうとしている、これらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるようにいつも目を覚まして祈りなさい」ということです。主は、これから起こる様々な苦難と試練に心奪われ、不安と恐怖に陥ることなく、やがて再臨される主イエスの前に畏れつつも大きな喜びをもって立てるように、いつも目を覚まして祈るように教えます。私達は「待ちつつ、急ぎつつ」希望をもって生きて行きたいと思うのです。