説教『平安、汝らにあれ』(ヨハネ20:14~23) イースター礼拝・説教要約 

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◎ 私達は、2月10日の灰の水曜日から昨日まで主のご受難を覚えながら受難節を過ごしてきましたが、今日、イエス様が復活された復活祭・イースターを迎えました。今日は、主のご復活を祝い、その喜びを分かち合いたいと思います。そして、今日はもう一つ大きな喜びがありました。子どもの教会から通い続け、教会の皆さんに愛され育てられてきた牧千暁さんが洗礼を受けられたことです。信仰の歩みは決して楽な歩みばかりではありません。しかし、主がペトロに向かって「あなたの信仰が無くならないように祈り続けている」と言われたように私たちのために主イエスが祈り続けておられます。そのことを忘れず、信仰の道を共に全うしたいと思います。

◎そのような信仰の原点・出発点が主イエスの復活の出来事です。今日は、ヨハネ福音書20:19~23を取り上げて主の復活の意味を深く心に刻みたいと思います。この記事は、イエス様が十字架につけられて墓に納められてから三日目、週の初めの日(今の日曜日)の朝早く、復活された主が女性達の前に姿を現わされますが、その日の夕方、弟子達の前に再び姿を現わされた場面を描いています。20:19によると、弟子達はユダヤ人を恐れて、家の戸に鍵をかけていたと言います。彼らは主イエスが逮捕され、十字架に架かり処刑されたことを知り、自分達も捕えられ処刑されることを恐れて家の中に隠れていたのでした。彼らの心にあったのは恐れだけではありませんでした。主イエスを裏切り逃げたことへの罪責感、愛する主イエスを喪った悲しみと喪失感、これからどうなるのかという不安と絶望を抱いていたと思います。彼らの心はぼろぼろで、びくびくと怯えている。その日の朝、マグダラのマリアが主イエスが復活されたと伝えに来たけれど信じられない。不信仰の中にもいたのです。

◎そのような弟子達の部屋の真ん中に復活された主が現れます。主は弟子達の真ん中に立って「あなたがたに平和があるように」と言われたと言います。部屋には鍵が掛かっています。復活された主は霊の体で現れたのでしょう。しかも、彼らの真ん中、正面に立って「平和があるように」と言われたと言います。この平和と訳された言葉・シャロームは挨拶の言葉でもありますが、怯えている弟子達を安心させる言葉、「平安あれ」と訳した方がいい言葉です。恐れている者、不安と恐怖、失意と絶望の中にいる人に必要なのは、安心感・平安です。主は、不安と恐れで怯える我が子を「大丈夫だよ」と安心させるかのように「平安、汝らにあれ」と呼びかけられたのです。この「平安あれ」をボンヘッファーは「平安あり」と訳しています。主イエスが今、ここにおられるので、もうここには既に「平安がある」。命令形ではなく、現在形で「平安あり」と受け止める解釈は実に素晴らしいと思います。しかも、この言葉の中には、裏切った弟子達を責めるような調子、叱りつけ・叱責するような響きはありません。「安心しなさい」という赦しの響き、愛の響きが感じられます。主は愛を伝えておられるのです。

◎続く20:20によれば、主はそのように語り掛けた後、ご自分の手と脇腹を見せたと言います。それは十字架に架かった釘の跡、槍の傷跡が残った手と脇腹です。「この私は十字架に架かった、あのイエスだ」と自ら示されたのです。弟子達はその傷跡を見て喜んだと言います。復活の主が幽霊などではなく、十字架に架かった主だと分かって喜んだのです。しかし、これを、その後の20:21の言葉「平安あれ」とつなげて読むとどうなるでしょうか。つまり、主が十字架の傷を見せて「平安あれ」と呼びかけられたと理解するとどうなるか。それは、この十字架の傷を見て安心しなさい、この傷によってあなたの罪は赦されたのだ、安心しなさいと言うメッセージが聞こえてきます。そのように「あなたがたに平安あれ」という言葉によって、主は、弟子達に落ち着きと平安、慰めと励まし、そして、罪の赦し、深き愛を伝えておられるのです。何という深い主の配慮・深い愛でしょうか。

◎しかし、主の言葉はこれで終わっていません。続いて主は「父が私を遣わしたように、私もあなたがたを遣わす」とおっしゃっています。主は弟子達に平和・平安・赦しを与えた上で、弟子達をこの世に遣わそうとしておられるのです。主の救いを受け、神との間に平和・平安・和解を得た者は、そこに留まることなく、さらに前に向かって歩むべきことを教えておられるのです。しかも、「遣わす」と言う言葉が表しているように、自分の方から出ていくのではなく、主イエスが送り出してくださる、主がこの世へと派遣されるのです。つまり、主イエスが主人・主体であり、私達は客・客体です。主イエスが父なり神に派遣されてこの世に来られ、世に救いをもたらすという使命を果たされたように、私達も、主にならい、主に遣わされてこの世の務め・使命を果たすのです。

◎そのようにあなたがたを遣わすと言われた後、主は弟子達に息を吹きかけたと言います。創世記第2章に「神はその鼻に息を吹き入れられた。すると、人は生きる者になった」とあるように、主は弟子達に命の息、主の霊・聖霊を吹き入れられた。聖霊は生きる命・力であり、真理の霊・助け手・弁護者でもあります。主は、弟子達をこの世に派遣するに際して、その務め・使命を果たせるように聖霊を吹き込んだのです。その使命とは罪の赦しの福音を宣べ伝えることです。私達は復活の主に遣わされ、罪の赦しの福音を証ししていく使命があるのです。