◎今日、与えられた聖書の御言葉は、ルカ22:47~62です。ここは、主が最後の晩餐の後、ゲッセマネの園で祈られた後、捕えられた場面と、主が連れていかれた大祭司の庭で弟子のペテロが主を否認した場面で、十字架の出来事の直前の場面です。ここには闇の世界が描かれていますが、その闇の中に主の救いの光も見えています。今日は、前半と後半に分け、それぞれが描く闇の中に主の救いの光が射しこんでいることを見て行きましょう。
◎まず前半は、22:47~53です。ここは3段落からなっていますが、第1段落では、主がゲッセマネの園で祈られた後、弟子達に話をしておられた時に主を捕えるために群衆が現れます。その先頭には弟子の一人・イスカリオテのユダがいます。捕える主を知らせるためにユダは主に接吻しようとします。親愛・尊敬・愛情を表す接吻によって主を捕えようというのです。接吻の裏にはユダの裏切りの心・偽りの心・心の闇がありました。主は、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」とユダの心を指摘されます。ここには、弟子であるユダに対して悔い改めの心・神に立ち帰ることを最後まで求める主の愛が示されています。主の悲しみもまた感じられます。
◎周囲にいた弟子達は事の成り行きをみて「主よ、剣で切りつけましょうか」と言って、大祭司の手下の一人の右の耳を切り落とします。これまで敵を愛せとの主の教えを聞いてきた弟子達が、剣や棒を持って捕えに来た群衆に対して憎しみを抱き、剣に対して剣で応戦した姿、憎しみには憎しみ、暴力には暴力で応える弟子達の未熟な姿があります。それに対して主は、「やめなさい」と命じ、切られた耳に触れ、癒されます。ここには憎しみに対して愛を、暴力には癒しをもって対する主の愛の姿があります。マタイ26章では「剣をさやに納めよ。剣を取る者は剣にて滅びる」と教え、武力否定・非暴力の教えをされています。これは、今日的な教えと言えます。
◎最後の段落では、押し寄せてきた祭司長達に主はこう言われます。「まるで強盗にでも向かうかのように剣や棒を持ってやってきたのか」と。主は、重武装して捕えようとする祭司長らの姿の中に強い恐れがあること、神の子を捕えようとする祭司長らの非信仰と、神にではなく自分に仕える不信仰を指摘されたのでした。さらに主は「私は毎日、神殿にいたのに、あなたがたは私に手を下さなかった」といい、祭司長らの心に群衆を恐れる恐れがあったことを指摘されます。そのようにして主は彼らの自己保身的な姿、不信仰、罪をここでも指摘されます。
◎しかし、主は「だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」といわれ、捕えられます。ここには、「神の時」を見る姿勢があります。今は、闇が振るっている時だ。だから、ここは黙って捕えられよう。しかし、やがて、時がくれば救いの時が来る。十字架と復活による救いの時が来る。主はそう確信しておられたのでした。
◎これが前半部分です。ここには、闇に支配された人間の心と世界の姿があります。偽りの心・裏切りの心で接吻しようとするユダ。暴力に対し暴力で対する弟子達。恐れと妬み、自己保身から重武装して主を捕えようとする祭司長らの姿。ここには人間の心の闇と闇に支配された人間の姿があります。しかし、他方、神の御心に従い、十字架に架かる覚悟を決め、堂々と落ち着いて自分を神に委ねようとなさる主の姿が光り輝いています。これは闇を見ながら、恐れずに闇の中へ、十字架へと向かう主の輝く姿を見ることができます。それは、闇の中にいる私達人間と人間世界に救いをもたらすためでした。闇の中に主の救いがあることを前半の記事は伝えています。
◎後半を見て行きます。22:54~62において描かれているのは弟子ペトロの否認の場面です。ペトロは主の跡をつけて大祭司の家に行きます。他の弟子達が逃げていく中でさすがのペトロです。彼は主に「主と一緒なら牢に入ってもいい、死んでもいい」と告げた人物です。ところが、大祭司の庭にいたペトロに女中が「この人も一緒だった」と言うと、彼は知らないと答えます。さらに、別の人に「あの連中の仲間だ」と言われると知らないと答えます。さらにほかの人に「この人も一緒だった」と問われると「あなたの言うことが分からない」と否定しました。この時、突然、鶏が鳴きました。ペトロは、主が自分を振り返るのを見、また、「鶏が鳴く前に三度、否定するだろう」という主の言葉を思い出し、外に出て激しく泣いたのでした。じつに心に迫ってくる話です。
◎この話は何をメッセージとして伝えているのでしょうか。それは第一に、人間が弱さ・無力・惨めさ・醜さを抱えているということです。ローマ7章に、善を知りながら悪を犯す自分の惨めさを嘆く言葉がありますが、人はすべて弱さ・惨めさを抱えています。しかし、そのような惨めな人間・罪人の私達もまた主イエスは深く憐れみ愛しておられる。これが第二のメッセージです。それは主のまなざしの中に表れています。主は、ぺトロにこう言われました。「あなたの信仰が無くならないように祈った。立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさい」と。主は十字架と復活の出来事によってペトロが立ち直ることを既にご存じだったのです。実際、ペトロはこの後、復活の主に出会い、愛と赦しを受けて立ち上がります。私達もまた挫折することがあります。しかし、主は私達を常に愛し、立ち上がらせてくださいます。主は闇の中に光を射しこんで下さいます。主は闇の中の光なのです。