説教『裁かれた救い主イエス』(ルカ22:63~70)

◎5月最後の主の日を迎えました。今週から6月に入ります。今日、与えられている聖書の御言葉はルカ22:63~70です。前回は、主イエスが捕えられた場面と弟子のペトロが主を知らないと三度否定した場面を見ました。今日は、その後、主が大祭司の屋敷の中で侮辱されののしられた場面と、夜が明けてから最高法院で主が裁かれる場面を取り上げます。この2つの場面を取り上げ、ここに隠されているメッセージに耳を傾けていきます。

◎最初に22:63~65を見て参ります。ここには主が捕えられた後、主が見張りの者達に侮辱され、殴られ、ののしられている場面が描かれています。64節に「主を目隠しして、お前を殴ったのは誰か言い当てて見よ」と言って主をあざ笑ったとあります。ここには弱い立場の者に対して人間がいかに残酷になれるかが描かれています。今も昔も変わることのない人間の残忍さ・残酷さといった赤裸々な人間の醜い罪の姿がここには描かれています。

◎次の22:66~71には主イエスが裁かれる場面が描かれています。マタイ・マルコの福音書では、捕えられた夜、大祭司の家で最高法院の議員が集まって主を裁き、主の死刑を決議したとありますが、ルカでは夜が明けてから裁判が行われています。ここでどのような裁判が行われたのか。ルカでは主が何者かで尋問を受けたことが書かれています。主は冒頭で「お前がメシアならそうだと言うがいい」と尋問されます。メシアとは「油注がれた者」「救い主」を意味します。ヘブライ語でメシア、ギリシャ語でキリストと言います。旧約聖書では、メシアはダビデ王の子孫から生まれ、神の民・イスラエルの王として公平と正義を行ない、イスラエルを王として治める者とされました。弟子達や民衆はイエス様にそのような地上の王としてのメシアを期待しました。しかし、イエス様は地上の王としてのメシアではなく、イエス様自身「自分はメシアである」とは自らおっしゃってはいません。

◎では「イエス様がメシア・キリストである」とはどういう意味か。それは、「イエス様が私達を罪から救い出した救い主である」と言う意味であり、それは十字架と復活の出来事によって明らかにされます。また、それはイエス様に対して呼びかける信仰告白ですから、イエス様ご自身が自ら名乗るようなものではありません。だから、主はこう答えます。「私がそうだと言ってもあなた達は決して信じないだろう。また、私があなたたちに私がメシアだと思うかと尋ねても答えないだろう」と。「結局、あなたたちは私を陥れるために尋問しているのであり、真理を求めようとしていない」と批判するのです。哲学者の森有正はパスカルの言葉を引用してこう書いています。「神は自らを試そうとする人には姿を隠す。神は本当に心の底から呻きながら神を求める人、謙った人に神を表す」と。主はこの裁判が真理を明らかにする裁判ではなく陰謀の裁判であることを暴露するのです。

◎その上で主はご自分がどのような者かを明らかにされます。「しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る」と。「人の子」とは、旧約では元来、「人間」を意味しましたが、ダニエル書では「来たるべきメシア」「終わりの日に裁く裁き主」と言う意味で使われています。イエス様は、ご自分の苦難を預言した時と再臨の時・終末的な裁きを行なう時に御自分を「人の子」と呼んでおられます(ルカ9:21、26)。したがって「人の子は全能の神の右に座る」とは、「メシアである私は、終わりの日の裁きにおいて神の右に座してあなたがたを裁く」と宣言しておられるのです。今、あなたがたは私を裁いているが、裁き主は私なのだと宣言しておられるのです。

◎しかし、その真意は祭司長らには伝わりません。彼らは「では、お前は神の子か」と尋問します。それに対して主は「私がそうだとは、あなたがたが言っている」と答えます。主は肯定しながらも微妙な言い方をしています。それはなぜか。それは、「イエス様が神の子だ」ということは、十字架と復活の出来事によって初めて明らかにされることだからです(マルコ15:39「本当にこの人は神の子だった」。ヨハネ20:28「私の主、私の神よ」)。しかし、このことは彼らには分かりません。彼らは、これで死刑にできると確信しピラトの所に連れて行きます。◎これが今日の話の内容ですが、ここにはどのようなメッセージが込められているのでしょうか。それは、第一に人間とはいかに残酷で、愚かで、愚かな存在かということです。主を侮辱し、あざ笑い、ののしり、殴る人間の姿は今も昔も変わりません。人間の持つ残酷さ、罪深さが心に突き刺さります。また、強引に主を裁く姿からも人間の姿が示されています。主は「人を裁くな。自分が裁かれないためである」と教えました。私達は人を裁いて止みません。なぜ、人を裁くのか。それは自分が正しいと思うからです。人を裁く時、人は神のようになっています。ここに人を裁く罪の根源があります。しかも、神の子を裁く人間の罪。その深き罪が示されています。

◎しかし、ここにはののしられ、裁かれながらも黙ってののしられ、裁かれる主の姿があります。ここには彼らの罪を担い、罪を赦す方としての姿があります。今日の記事には「メシア・人の子・神の子」という言葉が出てきましたが、これは十字架と復活の主こそ救い主であるとの初代教会の信仰が告白されています。「魚・イクトュース」は「イエス・キリスト、神の子、救い主」の頭文字からなる言葉です。信仰告白の印となった言葉です。