説教『群衆と権力者の罪と救い』(ルカ23:13~25) 主日礼拝・説教要約 

◎7月最初の主日を迎えました。先週は、教会創立40周年記念礼拝を捧げました。牧野先生ご夫妻を初めとして懐かしい方々が来てくださり、40周年を祝うことができました。これまで教会を支えてくださった方々を心に覚えながら、その働きに深く感謝しつつ、さらに神の栄光を現すために歩んでまいりたいと決意したことでした。

◎さて、今日も御言葉から主の御声・メッセージを聴いてまいります。今日の箇所はルカ23:13~25です。ここは、いよいよイエス様に対して死刑判決が下される場面です。前回、私達は総督ピラトとガリラヤ領主ヘロデがイエス様を尋問する場面を見ましたが、そこには自己保身・責任転嫁する人間、身勝手で傲慢な人間の姿を見る一方で、二人の権力者の間で沈黙するイエス様の姿を見ました。主の中に、真実の問いに対してのみ応える主の真実と二人の罪を負う救い主の憐れみを見たのでした。今日の場面では、その後ピラトがユダヤの指導者と民衆の前でイエス様が無実・無罪であることを公言します。ところが、そのことに対して民衆が「(暴動と殺人のかどで死刑判決を受けた)バラバを釈放せよ、イエスを殺せ」と叫び出します。ピラトは主の無罪を主張し、民衆を説得しようとしますが、民衆の叫びはますます大きくなり、ついに、ピラトはイエス様に対する死刑を認める判断を下します。そのようにして、罪なきイエス様が十字架に架かるという理不尽な判決が下されたのでした。

◎ここにはどのようなメッセージが込められているのでしょうか。今日は、ここから聴こえてくる3つのメッセージをお伝えしたいと思います。第一のメッセージは、総督ピラトの判決を巡ってのメッセージです。それは、人は弱さとずるさという罪を抱えているということです。ここでピラトは「訴えているような罪は何も見つからなかった」「死刑に当たるようなことは何もしていない」と確信をもって主イエスの無罪を公言しました。ピラトは、祭司長らが主イエスを引き渡したのはねたみによってであることを知っていました。ところが、民衆が騒ぎ出し、「イエスを十字架につけろ」という叫びがますます大きくなっていった。それで、ピラトは民衆の要求に負けて、主イエスを死刑にすることを認めます。無罪の人間を死刑にするとは理不尽なことです。ピラトは最高権力者として法的秩序・正義を守るべきです。それなのに民衆の理不尽な要求を受け入れた。それはなぜでしょうか。それは民衆の騒動・暴動が起きるのを恐れたからです。面倒なことは避けたい。事件を起こしたくない。それは治安の面だけでなく、総督としての責任を問われなくないという思いがあったからではないでしょうか。ここにピラトの弱さ・ずるさがあります。これは私たちも経験していることです。このピラトの姿は、私たちの姿を表しています。福音記者は、ピラトの姿を通して、弱さ・ずるさという人間の罪を明らかにしているのです。

◎第二のメッセージは、民衆のとった行動を通して示されているメッセージです。それは「流されすい人間の弱さ・罪」の問題です。ここで総督ピラトは「イエスは無罪だ」と公言した。それに対して民衆は「バラバを釈放せよ、イエスを十字架につけろ」と叫びます。それはマルコ15:11にあるように祭司長らが扇動したからです。民衆は背後にある力によって動かされ、ある方向に流されていったのです。民衆の心の中には「反ローマ」の感情、ユダヤの独立を願う民族主義的・愛国的情熱があった。その思いに火を着けられ、バラバを支持する人々が叫び出した。そのように、ある感情、反感や憎しみ・憎悪、怒りに火が付くと民衆は暴走していきます。これは、実に今起こっている出来事と重なります。2001年9月11日に起こった同時多発テロ。あの時、米国では「これは米国への攻撃だ、戦争だ」として国民の9割以上が支持をしてアフガニスタンへの攻撃、イラク戦争へと、一気に突き進んで行きました。それは多数の犠牲者を生み出し、新たなテロの温床を作りだしました。1918年、第一次世界大戦で敗れたドイツではワイマール憲法が採択され、民主主義体制・ワイマール体制ができましたが、その後、ナチスが登場し、1933年、ついにヒトラーが首相となるナチス体制ができ、戦争へと突き進んで行きました。それは敗北感・屈辱感を抱えたドイツ国民にドイツ民族の優秀性を訴え、他方、ユダヤ人などに対する憎悪を増大させ、民心をつかんだからです。私達民衆は流されやすい。特に集団となった時に理性を失い、扇動者によって先導されるとあやつられていく。そのような民衆のもつ弱さという罪を今日の記事は教えているのです。

◎それでは、この時、イエス様はどうされていたでしょうか。今日の記事の第3のメッセージは、イエス様が伝えているメッセージです。この時、イエス様はピラトと民衆のやり取りを静かにご覧になっておられた。ピラトと民衆の姿をじっとご覧になり、人間の罪を感じておられた。同時に十字架へと導いておられる神のご計画をお感じになり、十字架への道を引き受ける覚悟をしておられたと思います。ピラトの罪、民衆の罪を引き受ける覚悟をし、死刑判決を受けたバラバの罪を担う覚悟をしておられたはずです。それは後に十字架上で祈られた「父よ、彼らの罪をおゆるしください」の祈りから分かります。特に、有罪のバラバの罪を無罪のイエス様が引き受けられたことに、私たちの罪が主に担われたことを教えています。主イエスはすべての人の罪を担われた方なのです。