説教『十字架への道行き』(ルカ23:26~31)

◎7月第二主日を迎えました。先週、先々週と悲惨な事件が相次いでいます。7月2日にはバングラデシュでテロ事件があり日本人が7名犠牲となりました。7月7日にはアメリカで警察官が狙撃され5人が亡くなりました。黒人を白人の警官が射殺した事件に対する怒り・報復による事件です。今、世界では貧困や格差、差別に対する怒りや憎しみがテロや暴力、事件となって噴出しているようです。いかにして憎しみを愛に変えていくか、対立や争いを平和に変えていくかが課題です。その意味で愛と平和の道を教えられているクリスチャンの働き・役割は大変、大きいと言えます。私達はまず、私達の周り・身近な所から愛と平和を築いてまいりたいと思います。今日は参院選挙です。この国が真の平和・愛・自由・幸福へと歩んで行けるように祈りつつ投票いたしましょう。◎さて、今日も聖書の御言葉からメッセージを聴いていきます。今日の箇所はルカ23:26~31、イエス様が十字架へと歩んで行かれる場面です。前回は、イエス様は無罪だと確信して公言した総督ピラトが「イエスを十字架につけろ」という、扇動された民衆の叫びに負けて、イエス様を死刑とすることを認めた場面を見てきました。

◎今日の箇所は、イエス様が十字架につけられるためにゴルゴタという丘・刑場へと十字架を背負って歩んで行かれる場面です。この十字架の道は、カトリックでは「十字架への道行き」と呼び、実際に歩まれた道を「ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)」とも呼びます。今日は、イエス様が十字架へと向かわれる場面から2つの出来事、キレネ人シモンが十字架を背負わされたという出来事と、イエス様の後に泣き悲しみながら付いて来る女性達に語りかけたイエス様の言葉を取り上げ、そこに込められている2つのメッセージを聴いていきたいと思います。

◎まず最初の場面を見て行きましょう。ここには「田舎から出てきたキレネ人シモン」が登場します。キレネとは北アフリカにあった都市です。キレネ人とはキレネ出身のユダヤ人と言う意味で、シモンはキレネからエルサレム郊外に移ってきて農耕をしていたのでしょう。そのシモンが過越しの祭りの際にエルサレムに来ていた。そして、イエス様が処刑されるために歩んで行かれる道に立っていた。その時、ローマの兵士に捕えられ、イエス様が担いでおられた十字架を背負わされ、イエス様の御後に従って行くことになったのでした。この出来事は一体、何をメッセージとして伝えようとしているのでしょうか。それは、このシモンは私達の代表、いや、私達自身であるということです。私達は、人生の中で否応なく十字架を背負わされることがあります。仕事や病気、家族のことなど突然、重い十字架を背負わされることがあります。この時、シモンは、なぜ、自分がイエスの十字架を背負わされるのか、疑問に思ったでしょう。しかし、主の御後に従い、十字架を背負いながら思ったはずです。十字架は何と重いのか、なぜ、罪なきイエスが重い十字架を背負わされるのかと。目の前に見えるのは、傷つき、よろめきながら歩くイエスの姿。その主と共にシモンはゴルゴタまで十字架を運びます。そして、そこで見た十字架上のイエスの姿、聞いた叫びは生涯、心に残りました。その後、主が復活したことを聞き、また、復活の主と出会い、シモンは信仰を持つに至ります。それはマルコ15:21「アレキサンドロとルフォスの父シモン」と言う言葉から推測できます。アレキサンドロとルフォスは初代教会のリーダーであったからです。父シモンの信仰は二人の息子達に継承されたのでした。シモンはまったくの偶然からクリスチャンになったのです。私達の中にも偶然、信仰を得た人は少なくありません。しかし、この偶然は神の必然・御計画でもありました。ある人は「強いられた恵み」と呼んでいます。神様の恵みと招きはどこにもあります。日々、主の御後に従い、苦しい十字架を背負って生きて行く時、その苦しみは恵みへと変えられていきます。そのことをこの記事は伝えているのです。

◎第2の場面、23:27~31を見て行きましょう。ここには主の御後に民衆と婦人達が従い、婦人達が嘆き悲しんでいると、主が婦人達に振り向いて「私のために泣くな。自分と自分の子ども達のために泣きなさい」と呼びかけられたことが書かれています。それは、やがて彼女たちに悲惨な出来事が襲いかかる日が来るからです。我が子がいない方が良かったと思う程、悲惨な日が来るからです。主は続けて、ホセア書10章、エゼキエル書21章の言葉を引用しながら、やがて神の厳しい裁きがあること、つまり、終わりの日の裁きが来ることを語りながら、自分の罪を悔い改めることを呼びかけます。主は、一貫して「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と呼びかけて来られました。十字架を目前とした、この場面においても、主は私達に対し、我が罪を悔い改めることを求めておられるのです。そして、我が罪を悔い改めた所で初めて主イエスの姿が見え、罪の赦しの声が聞こえてきます。23:34の「父よ、彼らをお赦し下さい」、6:21「今泣いている人は幸いである。あなた方は、笑うようになる」、23:43「あなたは今日、私と一緒に楽園にいる」と言われた主の赦しと祝福の声が聞こえてきます。主はここで十字架を前にして私達に罪の悔い改めを求めると共に、悔い改めた時に、主イエスの救いが確実にもたらされることを約束されます。そのことを主は私達に教えるのです。十字架にこそ救いがあるのです。