説教『十字架上の切なる祈り』(ルカ23:32~43)

◎先週は、部落解放センター運営委員会に出席するために沖縄に行きました。沖縄は新基地建設問題で緊迫していました。日々、生命と生活の危機に脅かされながらも懸命に平和を築こうと闘っておられる沖縄の人々と接し、沖縄に背負わされた過酷な問題を我がこととして真剣に受け止めなければと思わされて帰って来たことでした。

◎今日、取り上げます聖書の箇所は、ルカ23:32~43です。前回は、イエス様が十字架へと向かわれる道行きの場面から、キレネ人シモンが十字架を背負わされた場面と、泣きながら主の御後に従う女性達に向かって主が「私のために泣くな。自分と子ども達のために泣け」と自分の罪を悔い改めることを求められた場面を見てきました。

◎今日の場面は、いよいよイエス様が十字架に架けられる場面です。そこで何が起こったのか、主は何と叫ばれたのか、また、人々は主にどう対したのかを見て参ります。最初に描かれているのは、主が二人の犯罪人と共に十字架につけられたことです。ここには罪なき主が重い罪を犯した罪人の一人として十字架につけられたことが、はっきりと描かれています。この時、主は「なぜ、無罪の私を十字架につけるのか」と怒り、反論することもできたでしょう。一般的に、十字架につけられる人は「私の罪をゆるしてくれ」と罪の赦しを懇願するそうです。しかし、この時主は「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と神に祈られました。本文ではこの部分はカッコに入っています。これは多くの写本にはないけれど、重要な文であることからカッコに入れて本文に入れたことを表しています。確かにこの文は重要です。ここに十字架の意味、キリスト信仰の意味があると言えます。しかし、この祈りを耳にしながらも、それを見ていた議員も兵士も十字架上の主イエスをののしったこと、さらに、十字架につけられた犯罪人の一人まで主をののしったことが書かれています。

◎ここにはどのようなメッセージが込められているのでしょうか。今日は、ここから3つのメッセージを読み取り、その一つ一つをお伝えして参りたいと思います。まず、第一のメッセージは何か。それは十字架とは罪の赦しをもたらす救いの出来事だということです。私達はこれまで、主が十字架につけられる場面を聖書を通して見てきましたが、そこに描かれていたのは人間の弱さ・醜さ・罪深さでした。妬みによって主を十字架につけた祭司・律法学者といった宗教指導者達、扇動されて主を十字架につけた民衆、民衆の叫びに負けて主を十字架につけた総督ピラト、処刑される主をののしり続けた兵士たち、主を裏切り逃げて行った弟子達。そのような人間の罪によって主は十字架につけられたのでした。しかし、主は十字架上で「父よ、彼らをお赦し下さい」と叫び、祈られたのです。しかも、主は「彼らは自分が何をしているのか知らないのです」と訴えられた。彼らは神から送られたメシアを殺そうとしている。いや、神を殺そうとしている。それが分かっていない。ここに人間の無知と罪がある。その彼らの無知と罪を赦してくださいと主は神に祈るのです。「彼ら」とは私達を指します。主は私達すべての者の罪を担い、その罪の赦しを求めておられるのです。ここに十字架の意味があります。十字架とは、主が私達の罪の赦しを求めて祈られ、犠牲となられたことを指します。この罪の赦しこそ十字架の意味なのです。

◎第二のメッセージは、罪の赦しのために主は自らの命を犠牲にされたということです。さきほどの主の祈りの後、人々は様々に主をののしったことが書かれています。議員や民衆、兵士、犯罪人まで。そのののしりに共通する言葉が「他人を救ったのに自分を救えない。自分を救ってみろ」です。この「自分を救え」と言う言葉こそ人間の本質を実によく表しています。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』はそれを良く描いています。生前、蜘蛛を助けたことでお釈迦様が救いの糸を天から垂らしてくださった。地獄から救われたいと主人公は必至でその糸を昇っていく。ところが下を見ると大勢の者がその糸を昇ってくる。それを見た主人公は「昇って来るな、降りろ、これは私の糸だ」と叫んだ所で糸が切れる。人間は他人の救いよりも何より自分の救いを求めます。それが人間です。ところが、主はご自分の救いを放棄して地上の人々の救いを求めて十字架にお架かりになられた。ご自分の命を犠牲にしてこの世のすべての人間の救いを求めて十字架に架かられた。十字架とは、私達人間の罪の赦し・救いを求めて主がご自分の命をお捧げになったことを表しています。命の犠牲を伴う罪の赦しこそ十字架の意味です。ローマ5:8には「私達がまだ罪人であった時、キリストが私達のために死んでくださったことにより、神は私達に対する愛を示されました。私達が神の敵であった時、神は御子の死によって神と和解させてくださったのです」とあります。神の敵であった私達を御子の命によって救って下さった。これが十字架の意味・神の愛なのです。

◎そういう十字架に主に向かって犯罪人の一人が「イエスよ、あなたが御国にお出でになる時には、私を思い出してください」と主に対して救いを求めました。主は、彼に向かって「あなたは今日、私と一緒に楽園にいる」と言われました。主は彼の信仰を認められたのです。彼こそ十字架の主に向かって信仰を言い表した最初の人物と言えます。十字架の主に救いを求めることこそキリスト信仰である。これが今日の第三のメッセージと言えます。