説教(桃井和馬さん)『ただひたすらに知恵を求めて  世界=破壊と紛争の現場から』(箴言2:2~5)

◎礼拝に出ると心が落ち着きます。普段の生活では、自分を大きく見せようとして生きていますが、礼拝に臨むと自然と自分の頭が垂れてきます。そのような礼拝を共にできますことを感謝します。さて、今、時代は大きく動いています。シリアではこの五年間で50万人が亡くなりました。バングラデシュでは日本人を含む27人が殺害されました。ドイツではイラン人が乱射する事件が起こりました。人間が劣化している。トルコではクーデターが起こり、その後、エルドアン大統領のすざまじい独裁の嵐が吹き荒れています。時代が大きく動いています。

◎1989年に冷戦が終わった後、次の価値観を求める大きな動きがありましたが、今は、それ以来、再び次の価値観を求めて大きく動いています。イスラム過激派のIS(イスラム国)は、自分達は絶対に正しい、他は悪で殺害してもやむを得ないと思っている。どこまで人間は残虐になれるのか、どこまで愛を貫くことができるのか。この相反する思想・生き方がぶつかっています。今、人類は正念場を迎えており、時代は徐々に不寛容な時代になっています。先日のECからの英国の離脱は不寛容な時代を象徴していまし、米国の共和党の大統領候補者となったトランプ氏はイスラム教徒を入国させないと言っています。1Sというイスラム過激派は、イスラム教徒の0.002%と言われているのに、イスラム教徒に憎悪がぶつけられています。この憎悪をどう抑えるか、この人間の驕りと高ぶりをどう抑えるか、また、憎悪の連鎖・復讐の連鎖をどう解くが今の人類の課題だといえます。

◎私は、「写真を撮らない写真家」と言われています。紛争を追いかけていくのがいやになりました。私はかつてペルーに2年間いて、どうして憎悪が起きるのかを追いかけました。同じことが各地で起こりました。トルコやアフリカなどでの似た勢力の憎悪の連鎖、ローテーションのように世界各地で同じパターンで暴力・憎悪の応酬がありました。隣の似たような勢力が互いに敵対し暴力の応酬が続く。人間はここまで愚かなのかと思いました。

◎人間対自然の関係においても同じことが言えます。今から20年ほど前に、四国の山奥に幻の烏骨鶏(うこっけい)の里を取材に行ったことがありました。そこには渡り鳥が来ません。渡り鳥がインフルエンザを運びます。山林にはアメリカ杉が植えられている。杉林は虫がいない、抗菌の森です。いわば「死んだ森」なのです。そこが烏骨鶏を飼う最高の環境だというのです。私は日本の山々を歩きました。どこにお寺や神社があるか分かります。雑木林があるからです。緑豊かな日本ですが、ほとんどが杉・ひのきといった建材です。つまり、お金のための森になっている。雑木林が豊かさを意味するとすれば、今、日本の森は売り払われた森となっているのです。

◎人間も動物・植物も本来、同じ細胞から成り立っていると言われます。それなのに人間が益か不利益かで自然を選別している。アマゾンや中央アフリカ、インドネシア、ボルネオといった所の原生林、深い森が切り倒されています。今、この世界は人間中心の世界になっています。これが不寛容な社会になった元ではないでしょうか。今、年間、4万種、1日で120種の生物が絶滅しています。これは人間の営みによります。その極みが原子力発電は社会にとって必要だという考えです。原発は人間によってコントロールできると考えてきましたが、あの3・11から5年が経ち、原発を扱うことができないことがはっきりしました。最近も東電は凍土壁計画を断念しました。今、日本は原発を輸出しようとしていますが、日本は、人間は本当に大丈夫なのかと思わざるを得ません。

◎私は聖書の中にある「バベルの塔」の話、また、アダムとエバの話を思い出します。旧約聖書には、いかに人間が愚かなことをやって来たのかと人類史が描かれています。そこに示されているのは、畏れを忘れた人間・集団は必ず暴走するということです。人間は、どこまでも驕り、高ぶり、人間中心に考える。それに対して神様は怒ります。君たちは人間に過ぎない、なぜ、神のように振る舞うのかと。なぜ、私は紛争を追わなくなったのか。それは、おごった権力は必ず腐敗するということが分かったからです。おごった権力が腐敗しなかった例を現代史においても、人類史おいても私は知りません。逆に言うと、賢い権力者と言うのは必ず自分に対してきちんと物を言っておく人を置き、また、自分のいたらなさ・人間を越えた存在への恐れを知っている権力者をいいます。

◎今日の午後、「ユダヤ人とイスラエル」と題して撮って来た写真を観ながら話をしますが、今日、ユダヤ人が被る帽子・キッパを持ってきました。これは聖なる場所、例えば、エルサレムの嘆きの壁などに行く時には必ず被ります。それは人間がおごらないためです。人間が人間を越えた存在をいつも感じておくためです。これがないと、すぐに人間は自分が一番偉いんだとおごってしまうからです。聖書のいう「おそれる」は「畏れること」「畏敬する」ことです。今54歳になる私には8か月の娘がいます。我が子が生まれた時、畏れと喜びがありました。人間には「畏れる」ことが必要です。そして、この畏れが人間としての「喜び」につながることを知るのです。