説教『今日、あなたは私と共にパラダイスにいる』(ルカ23:39~43)

◎7月最後の主の日を迎えました。先週、ようやく梅雨が明け、本格的な夏を迎えています。先週のアジア・アフリカ礼拝では写真家の桃井和馬さんから今、起こっている紛争やテロ、自然破壊の背後に人間の傲慢があることを指摘され、神を畏れることが今、最も必要であると語られました。貴重な話を伺うことができ、感謝します。

◎今日も聖書の御言葉を通してイエス様のメッセージを聴いていきます。今日取り上げるのは、ルカ23:39~43です。前回は、イエス様が十字架上で祈られた「父よ、彼らをお赦しください」の祈りを取り上げ、ここに十字架の意味があること、福音があることをお話しました。今日は、前回取り上げた最後の部分を再度、取り上げ、この箇所に込められた神様の素晴らしい恵みのメッセージを共に聴いていきたいと思います。この箇所について、ある人は聖書の中で最も重要な箇所、最も美しい箇所だと言い、また、ここに教会があると書いています。今日は、この箇所を再度取り上げ、3つの場面に分け、それぞれの場面から貴重なメッセージを聴いて参りましょう。

◎最初の場面は、23:19の一人の犯罪人がイエス様をののしる場面です。彼は主に向かって「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」とののしります。この「自分を救え」という言葉は、他の人間の罵りの言葉と同じです。ここには何よりも自分の救いを求める人間の本質・人間の罪が表れています。また、自分の救いではなく、何よりも他者の救いを求め、命を捧げた主のことを理解していません。つまり、ここには人間の罪と無知が示されています。他方、彼が他の人間と異なるものを持っていたことが彼の言葉から分かります。それは「我々を救ってみろ」と言う言葉です。「我々」とは「二人の犯罪人」を指しているとも言えますが、もっと広くユダヤ人全体を指しているとも言えます。彼はユダヤ人の救い、独立と繁栄を求めて闘っていた熱狂主義者なのかも知れない。そして、彼は主にユダヤ人の王を期待していた人物であり、その期待を裏切られた人物なのかも知れない。そう考えると「我々を救え」との言葉には彼の深い絶望が込められていると考えられます。彼はこの世界に絶望し、人生に絶望した人物の代表を見ることができます。そのように、今日の第一の場面で見られるのは、深い人間の罪と無知、そして、人生と世界に深く絶望した人間の姿を見ることができる。そう思います。

◎次の第二の場面で登場するのは、もう一人の犯罪人です。彼は罵る犯罪人をたしなめます。「お前は神をも畏れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は自分のやった報いを受けているのだから当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」と。「有罪のお前が罪なき方をののしるとは何事か。神を畏れるなら、この方には何も言えないはずだ」と言うのです。ここには、彼が自分の罪を深く自覚している人物であり、神を深く畏れる人物であることが示されています。先週、桃井和馬さんは「今、人間に必要なことは神を畏れることです」とおっしゃいました。今日、示されていることは「神を畏れる」とは「自分の罪を自覚すること」だということです。神への畏れと罪の自覚は表裏のものです。現代人がなぜ傲慢になったのか。それは罪の自覚がないからです。罪の自覚がないから神を畏れない。罪の自覚があれば神を畏れます。主を罵った犯罪人は罪の自覚がなかった。だから神を畏れることがなかった。それに対して、もう一人の犯罪人は罪の自覚を持っていた。だから、彼は、神を畏れたのです。第二の場面が伝えているのは「信仰とは、神を畏れ、罪を自覚することだ」ということです。

◎第二の場面が伝えているもう一つのことがあります。それは「この方は何も悪いことをしていない」と言う言葉に隠されていることです。なぜ、彼は主が無罪だと確信したのでしょうか。それは、十字架上の主の言葉「父よ、彼らをお赦し下さい」と言う祈りを聞いたからです。普通の人間なら、なぜ、無罪の私を十字架につけるのかと叫ぶか、私を赦してくださいと懇願するでしょう。しかし、主は自分を十字架につけた人々の罪を赦してくださいと切に祈られた。この祈りは彼に衝撃を与えた。そして、「この方は尋常な方ではない。この方こそ神の子・救い主だ」との確信を与えた。だから、主に向かって「あなたが御国にお出でになる時には私を思い出してください」と懇願したのです。主が王として支配される神の国に赴かれる時に私を思い出してくださいと懇願した。ここには主イエスに対する信仰を見ることができます。主の赦しの祈りが彼を変え、彼に信仰を与えたのです。

◎第三の場面に移ります。その彼の懇願に対する主の言葉はこうです。「はっきり言っておく。あなたは、今日、私と一緒に楽園にいる」。楽園とはパラダイスです。創世記2章のエデンの園を思い起こします。ユダヤ人は、神と和解し、神と正しい関わりを回復した人・義人は楽園の招かれると信じていました。それは死を突き抜けた命溢れる世界です。しかも、「今日、楽園にいる」といいます。死が目前に迫っている今、地獄のような苦しみの中にいる今、楽園にいるというのです。それは「主が共におられる」からです。主が共にいませば、どんな苦しみにあってもそこは楽園なのです。「心頭、滅却すれば火もまた涼し」。主がいませば、地獄も天国となる。私達はここに慰めと励まし、勇気と希望の源泉を見ます。主が共にいませば、どこもパラダイスになるのです。