説教『絶望の中の救いの光』(ルカ23:44~49)

◎先週は、台風10号の豪雨により岩手県・北海道で大きな被害がでました。ご遺族の上に慰めがありますよう、また、被災された方々の上に援助の手が差し伸べられ、一日も早く復興するように祈ります。先週は、秋の活動のために振起日礼拝を捧げました。40周年記念講演会も近づいてきました。皆で祈りを結集して参りましょう。

◎さて、これまでルカによる福音書を取り上げて5年近くになりますが、今日は、いよいよイエス様が息を引き取られる場面を取り上げます。死とは人生の総決算でもあります。死の姿に中に主イエスの真の姿があります。今日は、主が十字架上で息を引き取られる場面、ルカ23:44~49を取り上げ、ここに込められているメッセージを聴いて参ります。ここは3つの場面に分けられます。それぞれの場面からメッセージを聴いて参りましょう。

◎まず、第1の場面、23:44~45を見て行きます。ここは主が息を引き取られるまでの場面ですが、ここには昼の12時頃、全地が暗くなったことと神殿の幕が真ん中から裂けたことが書かれています。この2つの出来事は何を伝えているのでしょうか。まず、真昼の12時から3時頃まで全地が暗くなったとは何を表しているのでしょうか。それはおよそ2つのことを伝えていると言えます。一つは、神の怒りと裁きです。エレミヤ書15章に神に背いたイスラエルに対して神の怒りと裁きが下る時、「太陽は日盛りに沈み、人々は絶望する」とあります。主が死ぬ直前、全地が暗くなったとは、神の怒りと裁きが十字架上の主に臨んだことを表しています。主は正しい人であったのになぜ、主に上に神の怒りと裁きが下ったのでしょう。それは、私達、すべての人間に下されるべき神の怒りと裁きを神様がイエス様に下されたからです。言い換えれば、主が私達に下されるべき神の怒りと裁きを受けてくださった。そのように初代教会の人々は受け止めました。そこに主への深い思いが湧いてきます。

◎もう一つの解釈は、主イエスの死によって世は光を失うことを表しているという解釈です。ヨハネ福音書1章には「光は暗闇の中に輝いている。その光は真の光で、世に来てすべての人を照らす」とあります。初代教会の人々は「主イエスは義の太陽」と信じました。ですから主の死は世が光を失うことでもある。そのことを暗闇は表しています。この後、主は息を引き取られますが、三日目に復活されます。光は再び復活します。私達にとっても主は光です。その光は世のすべての人に注がれている。そこに希望があることをこの暗闇が教えているのです。

◎もう一つの出来事、神殿の幕が真ん中から裂けたとは何を意味しているのでしょうか。それは「神殿の崩壊」と「聖所と至聖所の境界の撤廃」を意味します。神殿崩壊は後に歴史的出来事になりますが、神殿崩壊と「聖と俗の境界撤廃」によって「神さまはどこにもおられ、どこでも祈り、礼拝できる」時代が来ることを教えています。主イエスの死と復活によって、世の人はいつでもどこでも神様に祈り、また、礼拝できる時代が開かれたのです。

◎次に第2の場面、23:46を見て行きます。ここで主はついに息を引き取られます。その時、主は「父よ、私の霊を御手にゆだねます」と大声で叫ばれたといいます。ここに主イエスの父なる神に対する心からの深い信頼、すべてを父なる神にゆだねる信仰、献げる信仰を見ることができます。しかし、「私の霊」とは、神から注がれた神の霊です。ですから、「私の霊をゆだねる」とは「神の霊をお返する」ことでもあります。ヨブ記の中には「私は裸で母の胎を出た。裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」とあります。人生において与えられたものはすべて神から与えられたものです。人生が閉じる時にそれを神にお返しする。これが聖書の考え方です。「父よ、私の霊を御手にゆだねます」とは、詩編31編の「主よ、御手に私の霊をゆだねます」の言葉と重なります。「主に私をゆだねる」とは聖書の信仰です。人生には、自分の力ではどうにもできないことが多くあります。そのような時、私達は自分を神にゆだねることを学びます。自分の力ではどうにもならないけれど、神様なら何とかしてくださる。最善に導いてくださる。そのような神への信頼と信仰を学びます。主イエスはずっとすべてを神にゆだねて来られました。それはゲッセマネの祈りでも見ることができました。そして、ご自分の死においても主はすべてを神にゆだね、御自分を献げられました。何のために? それは、私達を罪から救い出すためです。主はご自分を神に委ねることによって私達を救い出して下さったのです。そして、主は「ゆだねる」という生き方を私達に示し、教えてくださいました。私達は生きるにしても死ぬにしても神様にすべてを委ねること。そこにこそ真の平安、真の生き方があることを主イエスは教えてくださったのです。

◎最後の第3の場面は23:47~49です。ここには主が息を引き取られた後、それを見ていた人達の姿が描かれています。ローマ人の百人隊長は「この出来事を見て『本当に、この人は正しい人であった』と言って、神を讃美した」と言います。「正しい人」とは、単に無罪であるというに留まらず、「父なる神と深い関わりがある」、つまり、「神の子」だという信仰告白と言えます。彼は後にイエスを救い主と信じる信仰を持ったと言われます。その他十字架の出来事を見ていた人達は後に信仰を得ます。そこに救いがあることを人々は確信したからです。