説教『この私にも目を留めてくださった神様』(ルカ1:39~58)

2016年12月11日    アドベント礼拝(3)・説教要約

説教『この私にも目を留めてくださった神様』(ルカ1:39~58)
◎待降節第3主日を迎えました。会堂の講壇横に灯されたキャンドル3本に火が灯されました。キャンドルの色・紫は「悔い改め」を意味します。主を待ち望む待降節は「悔い改め」の時です。この1年を振り返ると犯した罪の数々を思い起こし、悔い改めざるを得ません。しかし、その悔い改めの中に主イエスを待ち望む「喜び」もあります。待降節第3主日は「喜びの主日」でもあります。悔い改めの中に喜びを覚えつつ共に礼拝を捧げます。

◎前回の礼拝説教では、婚約中のマリアが聖霊によって身籠ったことを天使に告げられた場面を取り上げました。驚いたマリアは「神にできないことは何一つない」の天使の言葉に「お言葉通り、この身になりますように」と神様のなさったことを受け入れる決意を表しました。その後、マリアはどうしたのかというのが、今日の聖書、1:39以下の内容です。今日の記事によるとマリアは親戚のエリサベトの所に向かったとあります。それは天使の言葉によって不妊の女と言われたエリサベトが年老いてから男の子を身籠ったことを知ったからです。不安と恐れを抱いていたマリアにとって自分の思いを分かってもらえるのは、自分と同じように神様の働きかけによって身籠った、あのエリサベトしかいないと思ったのでしょう。マリアはエリザベトに会うためにナザレから遠いユダの山里に急いで向かいました。山里ですから坂道を上り、丘の上にあるザカリヤの家に向かいました。

◎到着して、マリアがエリサベトに挨拶をしたところ、エリサベトの胎内の子がマリアの声を耳にして喜んで踊ったといいます。ここにはエリサベトの胎内にいた洗礼者ヨハネとマリアのお腹に宿ったばかりの主イエスが既につながっていたことが示されています。エリサベトも夫ザカリヤから筆談で聞いていたのでしょう、訪ねてきたマリアのお腹にいる子が救い主であることを確信して「私の主のお母さんが来てくださるとは」と喜んだと言います。このエリサベトの喜びと祝福は、不安と恐れで心が一杯であったマリアにとって大きな慰め・励まし・喜びとなったはずです。特にエリサベトの最後の言葉、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は何と幸いなことでしょう」は、マリアに大きな自信と喜びを与えたことでしょう。このように不安と恐れを抱きながらも神様の働きかけにより神様の大切な働きをする子を宿したという境遇は、この二人の女性を強く深く結びつけました。神の救いのために働くことになる洗礼者ヨハネと主イエスの二人の母親の姿は祝福に溢れています。

◎そのようにエリサベトの祝福を受け、大きな喜びに満たされたマリアは神様をほめたたえます。これがマリア讃歌です。この讃歌はマグニフィカ―と呼ばれますが、ここにはマリアの神に対する思いと信仰が込められています。では、どのような信仰だったのか。それは冒頭の神を讃える「あがめる」という言葉に込められています。この言葉はギリシャ語でメガルノー、ラテン語でマグニフィカ―と言いますが、「大きくする」という意味です。何を大きくするのか。それは神様です。彼女は「神様を大きくする」と歌うのです。中渋谷教会の及川信牧師がお父様の言葉「神様と自分の関係を分数で表すと分かりやすい」を紹介しておられます。分母は自分、分子は神様。分子の神様は1ですが、分母の自分が1であれば関係は1です。自分が2になれば、関係は2分の1です。この私と神様との関係とは信仰です。信仰とは自分を小さくして神様を大きくすることです。私達は自分のことで一杯です。神様が小さくなっている。しかし、マリアは神様を大きくすると歌います。しかも「わが魂は主を崇める」と歌います。心の奥底から、体全体、自分の根源・根底から神様を崇め、ほめたたえているのです。

◎では、なぜ、マリアは神を崇め、讃えるのか。それは「この身分の低い、はしためのような私にも神様が目を留めてくださったからです」。「目を留める」とは「心を懸ける。顧みる」ことです。神様は救い主を宿らせてくださった。神様がこの私に心を懸けてくださった、と神様を讃美するのです。マリアはそこに「主の憐れみ」を深く覚えました。「憐れみ」とはギリシャ語でエレオス。憐憫・慈悲・慈愛を意味します。ヘブライ語はヘセド。真実・誠実を意味します。「憐れみ」とは神様の誠実・真実な愛、変わることのない愛、約束を忘れることのない真実な愛を意味します。約束とは旧約を意味します。旧約の約束、アブラハムへの約束、預言者イザヤの預言など、神様は約束してくださった「救いを与える」との約束を実現させてくださった愛を憐れみと言うのです。しかも、その神の憐れみは「代々に限りなく続き、主を恐れる人に及ぶ」とあるように、永遠であり、すべての人に及ぶ広がりを持っています。そして、「権力ある者を引き下ろし、身分の高い者を高く上げ」とあるように、社会的な正義・公平・公正・愛を実現させます。ここには、「低きに下る神」「弱き者・小さくされている者を憐れむ神」が表されています。つまり、このマリア讃歌は聖書の神、信仰を高らかに歌っている讃歌なのです。

◎今日の記事を通して、私は3つのことを受け止めました。一つは、マリアとエリサベトとの出会いと交わりは教会の姿だということです。第二は、信仰とは自分を小さくし、神様を大きくすることだということ。そして、第三は、神様の憐れみは真実な愛であり、それが主の十字架となって実現したことです。ここに愛があるのです。