説教『聖書のことばを求める』(ネヘミヤ8:7~12)

2017年3月19日 主日礼拝・説教(佐野真也兄担当)要約
説教『聖書のことばを求める』(ネヘミヤ8:7~12)

◎「求めなさい。そうすれば、与えられる」(マタイ7:7)は、聖書のとても有名な言葉ですが、多くの人がこの言葉の意味を誤解しているかもしれません。「とにかく求めなければ何も始まらない。そして一生懸命求めさえすれば、それを手に入れられる」というように、これを「なせばなる」という人生の教訓として受け止めている人が多いかもしれません。もちろん、この教訓には一理あります。行動することで人生は開ける、という真実は確かにありそうです。しかし、この聖書の言葉は単なる人生の教訓ではありません。

 求める時には、誰に求めるのか、そして、何を求めるのか、という二つのことが、とても大切なのです。
求めるのならば、正しい相手に、正しい事を求める、ということを何よりも考えなければならないのです。

◎では、誰に求めればいいのか。それは、「求めなさい。そうすれば与えられる」と約束して下さっている天の神様に求めるべきであると主イエスは教えています。ここで大切なことは、聖書は「求め」れば「得られる」と言っているのではなくて、「与えられる」と「受け身」で表現していることです。つまり、あなたに与えようとしておられる方が待っておられる。だからこそ、あなたは求めさえすれば与えられると、私達の求める姿勢の大切さと共に、求める相手がどのような方かに目を向けさせようとしているのです。

◎では、次に「何を」求めるかについてです。今日私たちに与えられた聖書箇所から学びたいと思います。ネヘミヤという人物が登場します。ネヘミヤは、バビロン捕囚後、つまり、南ユダ王国が大国バビロニアに支配されて多くの民がバビロンの地に囚われの身となり、そして解放された、のちのユダヤの民の指導者です。解放をもたらした国ぺルシヤの王に仕えていました。ネヘミヤは、ぺルシヤの王の許可を得て、エルサレムに派遣され、崩された城壁を修復しました。ネヘミヤが仕官していたぺルシヤの王アルタクセルクスはネヘミヤをとても信頼していたので、この申し出を受け入れ、エルサレムにネヘミヤを安全に派遣する手はずを整えてくれました。ネヘミヤは、アルタクセルクスに故郷の町の再建を単に願い出ただけでなく、神様に求める祈りをしました。そして、神様はその求めが正しいこととお認めになり、この困難な事業を進めるために必要な知恵や人材をネヘミヤにお与えになり城壁を完成させてくださったのでした。

◎ここには、もうひとり重要な人物が登場します。祭司エズラです。エズラはバビロンより届けた律法をエルサレムの民に読み聞かせ、その意味を伝えるためにバビロンからネヘミヤによって呼び寄せられました。城壁再建は完成しましたがそれは外側だけであり、ネヘミヤが神様に求めた事業はそれだけでは終りません。さらに困難なイスラエルの民の再建、宗教改革という内側の事業があります。イスラエルの民を、神様を信仰する者達へと導くことが最も大きな課題でした。この大切な事業を、神様に祈り、神様の御心にかなっているか確認しつつ、祭司エズラと共に行ったのです。エルサレムの民は、皆がひとつになって、第七の月の1日にエズラやレビ人たちの朗読する聖書とその説明に耳を傾けました。それは私たちの暦では10月1日です。同じ月の15日には仮庵の祭りをするために集まり、聖書に聞き入ることになります。すなわち、ずっとなされてこなかった仮庵の祭り・エジプト脱出のときに荒野で天幕に住んだことを記念する大切な祭りをユダヤの民として神様の前で悔い改め、感謝しつつ、必要な準備をする時だったのです。

◎この時の民の様子にも目を向けたいと思います。8:1にはこうあります。「民は皆、水の門の前にある広場に集まって一人の人のようになった。彼らは書記官エズラに主がイスラエルに授けられたモーセの律法の書を持ってくるように求めた」。民のほうが主体的に、エズラにモーセの律法の書を求めたのです。律法の書の内容を民はまだ知りませんが、律法の書にはイスラエルの民を導き続ける神様の教えが書かれていることは知っていました。律法の書の内容をどうしても知りたくてエズラに持ってきて朗読することを求めたのです。総督ネヘミヤや祭司エズラによる改革の功績はもちろん大きいのですが、このような民の求める主体的な姿勢、はエルサレムのユダヤの民が新たに宗教生活を開始するために必要であったのだと思います。8章6節には、「エズラが大いなる神、主をたたえると民は皆、両手を挙げて「アーメン、アーメン」と唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて主を礼拝した」と、一体となって礼拝をした姿が書かれています。

◎これらの聖書箇所を読む時、私は鶴川北教会の歩みに想いを馳せます。『鶴川北教会 三十年史』に寄稿された藤木正一兄の言葉を紹介しますと、鶴川北教会は、高度経済成長期に小田急沿線の郊外にも宅地化の波が押し寄せ、郊外に家を買い求め鶴川の地に住み始めた、都心に母教会をもつファミリー世代の信徒達の集会として1969年に始まった。当時休日は日曜日のみで、その日曜に往復三時間かけて都心に通う大変さやローンがあり、交通費もままならない現実、子どもと共に教会に通い礼拝に出席したいという願いがあった。こういった思いを共有する有志で月一回土曜日午後礼拝形式の集まるようになった。その後、同じような環境にある他教会員にも声をかけて、少しずつ輪が広がっていった。そして、1970年からは信徒のお宅やスーパーの倉庫や学習塾の教室を借りて隔週で主の日の日曜の礼拝を継続してきた。1976年にはドイツ留学から帰国した牧野牧師を招聘し、日本基督教団の鶴川伝道所として開設された。そして1979年に会堂と牧師館が立てられ、1980年には鶴川北教会として認可された。日本のプロテスタント教会の開拓伝道では珍しいことではないかもしれません。しかし、注目すべきことは、イエス・キリストを救い主と告白する信仰の篤い信徒の方々が集いを開始し、継続し、主からの恵みと力があって鶴川北教会は形成されてきた、ということです。そしてそれは今も継承されているのです。万事を益とされる神様に、主を通して求めつつ新しい土地での礼拝に必要な環境や人材が与えられ、整えられてきた歴史だと思います。

◎8:7~8をご覧ください。民はアラム語を理解する民でした。エズラはへブライ語で朗読しましたが、それをアラム語に翻訳することのできるレビ人達が民の間に入って、アラム語に翻訳し、説明しながら伝えたので民はその意味を理解することができました。8:9には「民は皆、律法の言葉をきいて泣いた」と書いてあります。民はどうして泣いたのでしょうか。2つの理由があると思います。一つには知りたいと求めた律法の書に書かれていることが理解でき、感動のあまり泣いたのでしょう。もう一つは律法にそぐわない自分のこれまでの歩みだったことに気づかされ、その歩みを振り返って深く嘆き悲しんだのだと思います。そのように泣いている民に対してネヘミヤと祭司エズラはこう言って励ましたのです。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない」と。8:10でも「今日はわれらの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそあなたたちの力である。今日は聖なる日だ。悲しんではならない。」と繰り返し言います。この時、彼らはここで起こっているのと似たような出来事がかつてあったことを想い起こし、あのエジプトでの最初の捕囚と解放の時代、つまりヨシュアによる契約更新にまで遡って考えます。民はエジプトを出て40年間、天幕に住みつつ荒れ野の旅を続けて、やっと約束の地である乳と蜜の流れる地に辿り着いたイスラエルの民の経験したあの辛さと困難に自分達の姿を映し思いを馳せたことでしょう。そして、その時と同じようにイスラエルの民を救いだす神様の導きの確かさを知りました。民が神様の言葉を求め、祭司エズラやレビ人たちから律法の書の言葉を聞き、意味を説明してもらうことで民は一体となり神様との出会いが生じました。民は自分の行いを悔い改めて涙を流し、喜びにあふれました。神様の御前で自分たちがみじめな、律法に従うことができなかった者であることを知り、しかしそのことを赦し護る神様から喜びの力を与えられたのです。

◎ここで述べられることが特別な出来事であることを知るとしても、律法の書が朗読され、民がそれに聴き入り、涙を流し、また喜びにあふれた様子を伝えるこの箇所を読む時、今日の私達にもある思いが湧き起こります。私達の日本のプロテスタント教会もまた、神様の教え、私達の救い主イエスの教えに耳を傾け、聖書を読み、理解する信徒の共同体でありたいという願いが湧き起こります。そして、主イエスの教えに応答した生き方ができるようになりたいという求めです。エズラやレビ人達は決して新しい聖書を作ったのではありません。古くからイスラエルの民に伝承されてきたモーセ律法を朗読し、解説したのです。

◎宗教改革者ルターも同じです。新しい聖書を作ったのではなく、聖書を皆が読めるようにしたのです。私たちにはすでに聖書が与えられていて、聖書を中心に信仰共同体の歩みがなされてきたプロテスタントの伝統のなかにあるのです。鶴川北教会では、秋永先生の説きあかしにより、ルカによる福音書を2011年から5年をかけて読み進め、主イエスのことばをとおして神の国について学んでまいりました。そして、この2月からは新たに、マルコによる福音書の講解がなされています。主イエスの人生自体が福音なのだとマルコは教えています。主イエスが十字架の死から復活された日曜日毎に、教会に礼拝に招かれ、神様を賛美する讃美歌をうたい、マルコ書の聖書朗読に聞き、秋永牧師からその説き証しをうけ、それに応えて私たちの信仰を告白します。教会でともにお互いの不足を補い合い、持っているものを分かち合い、聖書をともに読み、御言葉を聞くときに、新しく知らされることがあり、私たちの命が新しくされ、そこからともに新しく生きることができ、喜びに満ちあふれるのです。聖書の言葉には、私たちの罪を示し、悔い改めに導く働きと、恵みを示し、良心に慰めと喜びを与える働きがあるのです。自分の罪を知って嘆く中にもなお望みがあります。その望みは私たちのなかにはなくて、主イエスの御言葉のなかにすでにあり、私たちに生きていく力が与えられるのです。うつろいやすい現代、確かなものの少ない現代においてこそ、聖書の言葉はゆるがないものです。新約聖書の執筆者のひとりであるパウロは、ロマ書10章で、旧約聖書を引用して次のように私たちに証言します。「主を信じる者は、だれも失望することがない」(ローマ人への手紙10:11)。