説教『喜びの時の始まり』(マルコ2:18~22)

2017年4月23日           主日礼拝・説教要約
   説教『喜びの時の始まり』(マルコ2:18~22)

◎4月第4主日、復活節第2主日を迎えました。私達は先週、復活祭・イースターを祝いました。主は、十字架にお架かりになった後、復活されて罪と死に勝利された。罪は赦され、永遠の命が確かなものとなった。そのことを共に喜び祝いました。教会の暦は受難節から復活節へ、悔い改めの時から喜びの時へと変わりました。今日は礼拝後に教会総会が開催されます。教会員が主において一つにされ、新年度の歩みを力強く始めたいと思います。

◎今日の聖句、マルコ2:18~22は喜びの時である復活節に入った今日の礼拝にふさわしい聖句です。今日はこの箇所に込められている大切なメッセージを共に聞いていきたいと思います。まず、冒頭の2:18を見ると、人々がイエス様の所に来てこう質問したといいます。「ヨハネの弟子達とファリサイ派の弟子達は断食しているのに、なぜ、あなたの弟子達は断食しないのですか」と。これは、前の記事で主に従うことを決意した徴税人レビの家で食事会が持たれたことが書かれているのと関係しているのでしょう。主と弟子達は、徴税人や罪人達と一緒に楽しく食事をされた。その姿を見聞きした人達が、どうも、主と弟子達は断食をしていないようだ。しかしなぜ、他の人達は断食するのに、主と弟子達はなぜ、断食をしないのか不思議に思い、そのように質問したのでしょう。

◎というのは、ダヤ人は律法に基づいて断食を大切にしてきたからです。神の前に罪を悔い改め、罪の赦しを求めるためです。その数は次第に増え、年に一回から数回へとなり、イエス様の時代には週に2回行われていました。特に律法を厳格に守ったファリサイ派の人々は週に2回の断食を厳守していました。さらに洗礼者ヨハネの弟子達はそれ以上に断食を行っていました。ヨハネは「天の国は近づいた。悔い改めよ」、神の審きが近づいている、悔い改めよ、と人々に訴え、悔い改めの洗礼を授けていました。その弟子達も神の審きに備え、悔い改めの日々を過ごし、常に断食をしていました。ところが、イエス様の弟子達は断食をしていない。イエス様もそれを求めていないようだ。それを人々は不思議に思って「なぜ、あなたたちは断食をしないのですか」と質問したのです。

◎その問いかけに対してイエス様はこう答えます。「花婿が一緒にいるのに婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいる限り、断食はできない」と。花婿とは誰でしょう。旧約聖書には花嫁・イスラエル民に対して花婿としての神が記されていますが、イエス様がおっしゃる花婿とはご自分のことを言われています。神から遣わされた神の子・救い主イエスは花嫁としてこの世に来られたというのです。婚礼とは私達の人生で最大の喜びの時です。花婿として主イエスが来てくださり、共にいてくださる。これは婚礼のようなものである。そこには喜びがあり、讃美がある。婚礼に招かれた客は、そこに花婿がいれば断食できないだろう。そうおっしゃったのです。

◎ただ、その後、主は不思議なことを言われます。「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には断食することになる」と。「花婿が奪い取られる日」とは主が十字架にお架かりになる日を指しています。その時、弟子達は主を裏切り、逃げていきました。そして、自分の罪に泣き、断食して悔い改めの涙を流しました。そのような時が来ることを主は予告しておられるのです。しかし、その後、十字架にお架かりになった主は復活されました。悲しんでいた弟子達は復活の主に出会い、喜びの再会をします。そして、十字架と復活の出来事によって人類の罪が赦され、罪と死に勝利されたこと、永遠の命・復活の命が確かなものになったことを確信し、喜びました。つまり、主イエスの来臨、十字架と復活により、この世に救いがもたらされ、この世は一変したのです。

◎伝道者パウロは、Ⅱコリント5:17で「キリストに結ばれた人は誰でも新しく創造された人なのです。古いものは去り、新しいものが生じた」と書き、6:2で「今や恵みの時、今こそ救いの日」と書いています。主イエスの到来により、救いがもたらされ、この世は新しい時代に入った。悔い改めの時は去り、救いの時・喜びの時がきた。もはや断食の時ではない。主イエスが救いをもたらし、今も共におられる。今は喜びの時だというのです。

◎そして、イエス様は、その救いの実現によって新しい生き方が求められることを2:21~22において語られます。「誰も織り立ての布から布切れをとって古い服に継ぎを当てたりしない。また、新しいぶどう酒を古い革袋に入れた入りしない。新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるべきである」と。新しい内容・中身には新しい入れ物・容器が必要である。救いの到来により新しい生き方が生まれたことを語るのです。主が来られる前は罪を悔い改めて救いを求めました。断食をし自らを苦しめて悔い改めました。しかし、主が来られ、私達の罪を担い、自らの命を犠牲にして私達の罪を赦してくださった。そして、復活されて私達に永遠の命・復活の命を確かなものとしてくださった。さらに主は私達といつも共にいてくださっています。だから今は断食の時ではなく、共に喜びをもって食事をする時なのです。悲しみではなく喜びの時代に入ったのです。常に喜ぶ生き方が生まれたのです。

◎もちろん、この世には今もなお、苦しみ・悲しみ・混乱・苦悩があります。しかし、私達は主の十字架と復活を忘れてはなりません。救いは実現したのです。このことを忘れず、希望をもって生きて行きたいと思うのです。